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押す【表現】、引く【理解】(第2回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、このところ『【表現】が【意図】した通りに【理解】されない……』という【お悩み】について【考察】を巡らせております。

 「【理解】されたい!」という【願望】は誰しも持つものですが、同時に「【押し付け】なんてまっぴらご免だ」という【意志】もまた同様でありましょう。

 ここで“【無理解】の【意志】”というものの【存在】は明らかですが、同時に『好んで【理解】したくなるもの』が【存在】するのもまた【事実】。つまり“【理解】の【意志】”の【存在】も明らかですが、これらは元々【別個】の【存在】です。ただし【押し付け】のような“【思考の自由】に対する【侵略】”が“【理解】の【意志】”を削り、同時に“【無理解】の【意志】”を育ててしまうであろうこと、これは【ご理解】いただきやすいものと考えます。

 こういった【存在】を受けて、今回は【創作】で、『【表現】、ひいては【作品】に【理解】を求めるには』という【命題】に【考察】を巡らせてみましょう。

 ◇

○【大前提】:【表現】に【理解】を求めるために

 さて、ここで【創作】へ【考察】を【発展】させてみましょう。
 『【表現】、ひいては【作品】に【理解】を求めるには』、というわけです。

 実のところ、【作品】や【作者】に“【理解】の【意志】”を持たない人々というのは、そもそも【観客】たり得ません。よって【作者】としては、この人々に【観客】になってもらうことはあきらめるのが【賢明】でありましょう。『来るものは拒まず、去るものは追わず』、【可能性】のある【方向性】に向き合う方が、【精神的】にも【現実的】にもより【有意義】というものです。

 では“【理解】の【意志】”を持ってくれる【観客】に出会えたとして、【作者】としてはどうするのが望ましいか。これを【考察】してみましょう。

 ここで【重要】な【事実】があります。
 【観客】が持つ“【理解】の【意志】”は、あくまでも“【観客自身】の【自由意志】”によるものです。言い換えれば“【理解】の【意志】”は“【観客】の【心理】に【自然発生】するもの”であって、同時に『【観客】の【心理】は、【観客自身】だけのもの』でもあります。これを『【他人】の身である【作者】が思い通りに操ろうとする【行為】』つまり【押し付け】というものは、他ならぬ“【思考の自由】に対する【侵略】”です。
 そして【先述】しましたが、『“【思考の自由】に対する【侵略】”は、【観客】の“【理解】の【意志】”を削り“【無理解】の【意志】”を育てる【行為】』に他なりません。私が掲げる【教訓】『【他人】の【思考】を思い通りに操ろうとしてはならない』とは、“【理解】を削らないことで【最大化】するための【大前提】”というわけなのです。

 つまり【作者】として【観客】の“【理解】の【意志】”を【最大化】したいなら、また“【無理解】の【意志】”を【最小化】したいなら、『【作品】や【作者】に対する【観客】の【反感】を【最小化】するのが【大前提】』ということになります。つまり【理解】を【最大化】しようと望むにもかかわらず、“【無理解】の【意志】”を【縮小】することには【注力】しない――というのは、単なる【怠慢】ということになりますね。
 そのためには、当の【観客】の【個性】を認め、【人格】と【思考の自由】を【尊重】せねば始まらない――ということになります。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 【観客】に【理解】を求める上では、“【理解】の【意志】”を知らねば始まりません。

 あくまでも、“【理解】の【意志】”は“【観客自身】の【自由意志】”によるものです。これを【尊重】せず【押し付け】を試みるなら、【作者】は“【思考の自由】に対する【侵略】”に出たことになり、むしろ“【無理解】の【意志】”を育ててしまうことになります。
 ならば【作者】として真っ先に【認識】すべきは、【観客】の【個性】を認め、その【人格】と【思考の自由】を【尊重】すること――ということになりますね。

 その上で、次回は“【理解】の【意志】”が育つ【条件】を【考察】してみましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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