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押す【表現】、引く【理解】(第1回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、よく眼に(耳に)する【お悩み】があります。

・【お悩み】:【表現】が【意図】した通りに【理解】されない……

 実はこの【お悩み】、【作者】の【心理】としては私にも【理解】できるところです。ただし【観客】の【立場】になってみれば、『【思考】を操ろうと仕掛けられる』のは【不愉快】――という【事実】もまたあるもので。

 であれば【表現】と【理解】について、【作者】と【観客】の間に生まれがちな【心理】の【隔たり】とその【向き合い方】、そこに【考察】を巡らせてみる【価値】がありそうです。

 というわけで、今回はこの【表現】と【理解】について【我流】の【考察】を【展開】して参ります。よろしくお付き合いのほどを。

 ◇

○【考察】:“【無理解】の【意志】”

 まず、【表現】を受け取る側(例えば【観客】)の【心理】として、私は以下の【持論】を持っております。

・【持論】:【押し付け】を感じたとき、人には“【無理解】の【意志】”が生じやすい

 ここで【押し付け】の【定義】としては、『当人の望んでいない【理解】を【強要】する行為』とします。
 例えば【説教】、しかも当人として望んでいないもの、を私としては【押し付け】に挙げますが。
 もう一つ【押し付け】の例として、『「こう思え!」という【強要】』を挙げておきます。

 この【押し付け】、【極端】なところでは“【特定】の【思考】を【強要】する【拷問】”が当てはまるでしょうか。『狙い通りの【思考】を持つまで【害】を加え続ける』わけですが、それこそ【宗教裁判】にも近い【結果】を招くであろうことは【想像】に難くありません。
 命懸けで【意志】を貫く人もあり、【屈服】したかのように装いつつ【面従腹背】の人もあり。ここまで至ると、人はそれこそ“【不屈】の【意志】”をもって自らの【思考】を守ろうとするわけです。

 ここでいう“【不屈】の【意志】”が、私の【表現】する“【無理解】の【意志】”に【相当】します。【拷問】という【強硬手段】まで持ち出してくる【押し付け】に対して、「【意地】でも思い通りになどなってやるものか」という【決意】を、むしろ固めてしまうわけですね。

 また最初に受け入れる気があったとしても、【拷問】という形の【押し付け】に【反感】を覚える人だってありましょう。この場合、『最初にあった“【理解】の【意志】”が削られる』とでも称すべき【現象】が起こっている――とも【推察】できます。

 ここで『“【理解】の【意志】”と“【無理解】の【意志】”は、もともと【別個】の【存在】』です。ですが、『(【拷問】を含め)“【押し付け】の【姿勢】”は、【押し付け】を受けた人の“【理解】の【意志】”を削り、“【無理解】の【意志】”を育てる』という【傾向】を持つわけです。これについては、【ご理解】いただきやすいものと考えます。

 ここで「そんなことはない! 多少の【押し付け】は【理解】してくれる人もいるはずだ!」という【主張】も、私は【予測】しておりますが。
 そもそもそう【都合よく】【理解】してくれる人とは、最初から【利害】が【一致】していたりするものです。つまり“【理解】の【意志】”の持ち主ではあるわけですが、この人とてどこかで【利害】の【不一致】が生じた場合は、さてどうでしょう。私が思い浮かべるのは、例えるなら『金の切れ目が縁の切れ目』。しかも“縁の切れ目”では【押し付け】の【意趣返し】として【致命傷】を負わせにくる【展開】までも【予測】するところです。

 【押し付け】が嫌われる――と、かくも私が考える【理由】は【単純至極】。ここでいう【押し付け】が“【思考の自由】に対する【侵略】”だからです。【一方的】に【自由】を【侵略】されて喜ぶ人は、ほぼいません。

 もし『【相手】が“【思考の自由】”に対する【侵略】を【歓迎】する』と考える【人物】がいるのなら、『その【人物】は、【自分自身】の“【思考の自由】を【侵略】されること”をも【歓迎】する』ということです。この場合、例えば『「【解って欲しい】!」という【自分】の【心理】を【相手】から“【尊重】されないこと”』にも【喜び】を感じる、ということになりますね。お望み通り、“【無理解】の【意志】”に囲まれるのがよろしいかと。
 さもなくば、『この【人物】は【一方的】に【理解】を【搾取】しようとする【不誠実】な【姿勢】の持ち主』ということになります。もちろんこの場合、いかなる【理解】を求める【資格】をも、この【人物】には認めようがありません。

 結局のところ、“【思考の自由】に対する【侵略】”が【歓迎】される――と【期待】する【論理的根拠】はないのです。

 要は、【押し付け】は大なり小なり“【思考の自由】に対する【侵略】”であって、それは“【理解】の【意志】”を損ね、“【無理解】の【意志】”を育てる【行為】――という、これは私の【考察】なわけです。

 もちろん予め築かれた【信頼関係】というものもありましょう。【相手】(=【観客】)が予め【自分】(=【作者】)に対して“【理解】の【意志】”を持っていれば、「こう思って!」という【押し付け】は通じ得なくはありません。
 ただしもちろん、それは【相手】の【忍耐】あってこそ成り立つものです。【押し付け】が【相手】の【忍耐】を削り切った場合は、あるいは【相手】が【忍耐】の【必要性】を感じなくなれば、“【理解】の【意志】”はすり切れてなくなります。つまり“【理解】の【意志】”は【有限】でかつ【消耗】する、ということになりますね。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 「【理解】されたい!」という【願望】は誰しも持つものですが、同時に「【押し付け】なんてまっぴらご免だ」という【意志】もまた同様でありましょう。
 ここで“【無理解】の【意志】”というものの【存在】は明らかですが、同時に『好んで【理解】したくなるもの』が【存在】するのもまた【事実】。つまり“【理解】の【意志】”の【存在】も明らかですが、これらは元々【別個】の【存在】です。ただし【押し付け】のような“【思考の自由】に対する【侵略】”が“【理解】の【意志】”を削り、同時に“【無理解】の【意志】”を育ててしまうであろうこと、これは【ご理解】いただきやすいものと考えます。

 こういった【存在】を受けて、次回は【創作】で、『【表現】、ひいては【作品】に【理解】を求めるには』という【命題】に【考察】を巡らせてみましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

(次の記事)


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