『どんな【作品】を書いたらいいか』という悩みの裏側
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、『【観客】の反応を見て、それに合わせて【作品】を変える』という姿勢に、危うさを感じることが多々あります。
もちろん、こういった例の全てにおいて、ではありません。問題“ではない”と感じるのは、『【作者】が“能動的に”【観客】の反応を利用している場合』ですね。例えば『インタラクティヴ感を【演出】するという目的で、【観客】の反応を“能動的に”【展開】に反映する場合』であるとかが、これに当てはまります。
逆に私が危うさを感じるのは、『【作者】が“受動的に”【観客】の反応に従っている場合』です。例えば「どんな【作品】を書いたらいいと思いますか?」という質問を【観客】へ投げるように、『【作者】が自分の中に「好き!」の芯を持っていない場合』などが、これに当てはまります。
この場合、私が何を危ぶむかと申せば。
『【作者】が、自力では何が「好き!」なのかを掴めない』――という状態です。
もちろん、プロさながらに『【観客】のニーズに応える』という姿勢も、この中にあったとして不思議ではありません。私としてはそれ自体を否定するものではありませんが、ただ、『【作者】の中で、「好き!」が“意志決定要因の【主たるもの】”の座に存在しないこと』をこそ危ぶむのです。つまり『“【観客】という他人”の存在が、“【作者】としての自分”の存在よりも重くなってしまっている状態』、下手をすると『【作者】が自分の「好き!」を見失っている状態』ですね。
なぜ、この状態を危ぶむかと申せば。
『【作者】の中で、“【創作】という行動”が“他者のもの”になってしまう』からです。
“【作者】としての自分”が意志決定の過程において、『“【観客】という他人”の意志を“意志決定要因の【主たるもの】”の座に据えるとき、果たして何が起こるでしょうか。
例えば『【作品】が、“【作者】の定義する【成功】”を収めた』としましょう。その功績はどこにあるかといえば、それは“意志決定要因の【主たるもの】”です。「どのような理由で、“【成功】の要因”を【作品】に組み込んだか」と問われれば、【作者】自身の中では「“【観客】という他人”にそう言われたから」という答えが成立します。表面上どう取り繕おうとも、自分に嘘はつけません。
この時、“【成功】の功績”、少なくともその【主たるもの】は“他人のもの”になります。【作者】にとって【成功】とは『自分で掴むことはできないもの』になり、『自分では再現できないもの』になります。言い方を変えれば『たとえ【成功】したしても、それは自分の“功績”にも【自信】にもならない』わけです。事実、『【成功】の要因を自分では決めていない』わけですから。
他方、【失敗】したらしたで、こちらもまた厄介です。今度は『“他人の作った壁”を乗り越えられなかった』ことになるからです。
これのどこが厄介かといって、“他人の作った壁”というのは“他人の心”に拠って成立している、というところです。つまり『“壁”の内訳も、存在意義も、読めない』のです。なぜなら他人の心は読めませんから。
いやいや言葉で意志疎通すれば――というツッコミも予想されますが、『【観客】が【作者】よりも言語化の能力に秀でている』というのは、なかなかに【説得力】を欠く状態です。さらには、『【作者】が“不特定多数の【観客】”の顔色を窺っている場合』はどうでしょうか。この場合、『【作者】は、“【観客】個人個人の明確な意志”すら見分けることができない』ことになります――つまり、『誰に、何を訊いたらいいか全く判らない』状態になるわけです。これでは、『“他人の作った壁”はさらに掴みどころのない存在』ということになりますね。
このように『掴みどころのない“他人の作った壁”』は、乗り越えようにも、中身を観察することも、ましてや分析することなど夢のまた夢――という存在です。論理的に乗り越えようにも、乗り越えるための課題は何か、その手前に据えるべき中間課題は何か、これでは【認識】しようがないというものですね。
にもかかわらず、苦労や責任は常に“【作者】としての自分”のものです。もちろんこれは当然のことですね――『【作品】は本来【作者】が【主たるもの】として作り上げるもの』ですから。
ですが、【作者】が上記のように【主たるもの】の座を【観客】に委ねてしまっている状態では、さてどうでしょう。【作者】の【認識】の中では【主たるもの】は【観客】です。つまり責任を負うべき立場に【観客】を据えてしまっているわけです。悪くすれば「自分のありのままの【作品】に見向きもせず、勝手な注文ばかりつける【観客】が悪い」という【認識】にまで発展しかねないわけですが、実際のところは『“【観客】に主導権を委ねすぎた自分”の責任を棚に上げている』のは言うまでもありません。
さて、このような状態で、です。【作者】とその【作品】は、技巧や出来の上で向上が見込めるものでしょうか。
例えば『誰に、何を訊いたらいいか全く判らない』状態であるとすれば、改善や鍛錬については望み薄と申し上げざるを得ません。 少なくとも『【作者】自身でなく【観客】を【主たるもの】に据えている』という時点で『改善や鍛錬の対象として注力すべきものを、自力で見付けることを放棄』してしまっているわけですから。対象を観る気がないのであれば、そも改善も鍛錬もできる道理がありません。
また、【作者】の心理が「他人のために苦労してやっているのに、ちっとも報われない」という【認識】に陥っているとなれば、改善にも鍛錬にも身の入る道理がありません。
ただでさえ“壁”につまずいている上に、改善や鍛錬に関して対象すら観えない、あるいは身が入らない――となれば、そのような【作者】と【作品】が、より良くなっていく理由はありません。また【作品】が良くならないなら、【観客】としても【作者】としても面白いはずはありません。
よって【観客】は離れ、【作者】としてはさらに面白くなくなり、またその責任を逃れたくもなって、また【観客】に意見を求めることになるわけです――「どんな【作品】を書いたらいいと思いますか?」と。
つまりは悪循環ですね。
私の見るところ、この場合の問題は『【作品】を作るはずの【作者】が、“受動的に”“【観客】という他人”に意志決定を委ねてしまっていること』にあります。“【作者】としての自分”が意志決定を放棄しているに等しい姿勢は、同時に『【作品】や【作者】自身に関する改善や鍛錬を放棄している姿勢』とも、さらには『【作品】の出来に関する責任を他人に押し付けている姿勢』ともなり得るわけです。
なので私としてお勧めしたいのは、『【作者】として“能動的に”意志を決定すること』。そのためには『“【作者】としての自分”の「好き!」を、【創作】の中心に据えること』をお勧めしたいところです。
もちろん『【作者】が独りよがりばかりを押し通す姿勢』を肯定する気は、私にはありません。ですが同時に、だからといって『短絡的に【作者】の「好き!」を否定する姿勢』を肯定する気は、さらにありません。
つまりは『【作者】が自身の「好き!」と、【客観的】な【面白さ】の両立を図る姿勢』をこそ、私は支持するわけです。
そもそもの話、『自分の「好き!」を活かすためであるからこそ、改善や鍛錬に身も入る』というものです。また、『自分の「好き!」であるからこそ、その魅力もポテンシャルも【理解】でき得る』というものでもあります。つまりは『他人には決して【理解】できない可能性』というわけですね。
ここに『【作者】の「好き!」を他人に伝えること、あわよくば「好き!」に他人を巻き込むこと』を【目的】として加えれば、さてどうでしょう。『【作者】自身の「好き!」を【客観的】な【面白さ】へ昇華させる改善と鍛錬の、“能動的な”動機』というものが、ここに成立することとなります。
言い方を変えると、『【作者】が自身の「好き!」と、【客観的】な【面白さ】の両立を図る姿勢』のためには、『【創作】の受益者の【主たるもの】』として【作者】自身の姿がなければならないわけです。でなければ“【観客】という他人”の【無理解】に流されてしまうからです。
自分の「好き!」に【観客】からの【理解】を得る、そのための改善や鍛錬としてみれば、“能動的な”動機をもって創作に注力することもできよう――と、私は考えるのでありました。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。