1977年の新宿にワープしてみた
この頃のSOUL/R&Bを聞いてこんなに波動が上がるなんて、想定外でした。 私、エムは1976年に18才で服飾の勉強のために上京しました。 専門学校に入学しましたが、お遊びみたいな講義の数々に失望して、1年で中退します。 人生が転がりはじめます。
西麻布のマンションメーカーにアシスタントデザイナーで、就職するも半年でリタイアします。
私は、どうしようもなくダサくて、空回りする自立心を抱えて、粋がっていました。
1977年19才の時、新宿三丁目の三越前の大丸マリエポール・ラ・ミューズマリに再就職します。 そのころ流行りのアースカラーに着目した、都内近郊に6店舗を持つブティックです。
1Fは単品、2Fはセットアップ、3Fは重衣料を扱っていました。
20才前後のハウスマヌカンが10名ほど、店長とその補佐は男性で、マネージャーは40才位の女性で、私達の保育係でした。
みんな何かあると彼女に相談していました。
10名のハウスマヌカンのうち8名は地方出身のアバンギャルドな女子で、ファッション大好き、音楽大好きでした。
なにか、東京出身者とは、根本的に違ってた気がします。
東京出身の子は今でいう、こなれてるというか、トラッドを意識したお嬢様風か、サーファーっぽい子が多かったと思います。
店長補佐は、この東京のクールなお嬢様がお好きのようでした。
でもこれだけ人数がいると、派閥があってもさほど気にならず、マネジャーが、そのバランスを見守ってくれていました。
店長は、その頃の俳優さんと似ていて、低音のいいお声をしていましたが、二枚目ぶる三枚目で、スタッフ一人一人のいいところも、癖もしっかり把握していました。 日々柔和な笑顔で今の時代なら一発アウトな言葉をかけまくっては、みんなを盛り上げていました。
私達はそれを「ハイハイ」と右から左へ聞き流しながらも、気分上々で仕事をしていたと思います。 お客様は神様の時代でした。
1Fから3Fのフロアを駆け上って、駆け下りて、お客様のトータルコーディネートして差し上げていました。
普通のOLが、トータル10万円程度のものを買っていくのです。
仕入もかかわらせて貰えるので、仕事は充実していました。
そして私はどうやら接客に向いていました。
アパレル全盛期です。
その頃アパレルの営業は人気職種でした。 おしゃれな今でいうイケメンも多かったけど、過労で亡くなる人もいるほど、仕事はハードだったようです。 出張先に向かう途中で事故死とかあると、前の日寝てなかったんじゃなかと囁かれていました。 そのくらいファッション業界は過熱していました。
お店にも少し慣れたころ、以前のマンションメーカーの営業の佐藤さんが、心配して訪ねてきてくれました。
佐藤さんは元カーレーサーで、営業で横浜元町どぶ板横丁に行ったときも、やばい運転スキルを見せられて、私は肝を冷やしました。
なにせ18才なので、みんなにご心配頂いていました。
それでも佐藤さんは厳つくてブティックには不釣り合いで、せっかくきてくれたのにあからさまにそっけなくしてしまいました。
ユーミンの『5㎝の向こう岸』を聞くたびに、恋愛ではなかったものの、子供だったなと思い、自責の念が去来します。
そのビルは4Fが美容室で、私達は4Fの美容師さんたちともけっこう交流があって、仕事終わってみんなで意味もなく、海にいったり青春みたいなこともしていました。 髪はいつもインターンの子にカットモデルでお願いしていました。
私より一つ年下のユウスケは、シャンプー剤で手はガサガサに荒れて、穴のあいた服を着ていました。
私のこと好きなの?とうすうす思っていましたけど、告白された訳でもないので、放置していました。 カットのときに「どうする?」と聞かれて「おまかせする」と言ったら、前髪を生え際で切られ「えっ」と思ったらきれいに坊主にされました。
よって成人式は紫色の京友禅を坊主頭で着ました。
道行く人には「よっ!お姉さん粋だね!」って声をかけられました。
ユウスケは好きだったけど、私はファザコンなので、年下はということで頭を丸めた次第です。 隠したいものも隠せない坊主は、覚悟ができて、以外に爽快でした。 例えるなら極妻みたいな感じです。
お店の話に戻ると、20代が10人いるのは凄い熱量なのです。
よってその熱を逃がすため、踊りにもみんなでよくいきました。
苦手なステップの時代はこのころには終わっていて、アースウィンド&ファイヤーの『レッツグルーブ』とかアバの『DANCING QUEEN』とかドナサマーの『Sunny』とかの時代です。
まずは、更科ってお蕎麦屋さんで安くて美味しいお蕎麦を食べてからです。
私はしっぽくが大好きでした。
たしか270円位で、麵はきしめんで関西風のだしで、いか天とちくわ天が乗っかっています。 この間新宿に行ったとき探したけど、見当たりませんでした。
丸井も全盛期でした。 若い子はローンで高価な服を買うのもよくある話でした。 BIGIのトレンチコートなんて大きな肩パット入ってるのに、一生モノだからって奮発しちゃってました。
歌舞伎町の噴水ももうないのでしょうね。
あそこはよく大学生が大騒ぎしていて、急性アルコール中毒が続出するので、救急車が止まっていることもしばしばでした。
始発が出る頃には、夜を徹して遊び疲れた人たちが、白日に晒されて、祭りの後みたいな感じです。
こうして、過ぎた時代に浸るのはなんか面映ゆかったのですが、ドレスコードつけてこの時代のDISCO再現したら、楽しそうです。
その後私にも12才年上の彼氏ができて、ライブハウスいったり毎晩飲み歩いていました。 サザンのデビューシングル『勝手にシンドバッド』もこの頃発売されました。 彼は美容師で20代にフランスでモード誌の仕事をしていたという、ちょっと変わった経歴をもっていました。
その時代はビートルズがブレイクしたころだから、イギリス、フランスはドラッグとか凄そうですが、私と出会った時の彼は、神がかったカットのスピード以外は、マシュマロみたいな人で、男性にとてもモテていました。
その頃は、セクシャリティとかあまり認知してなかったけど、もしかしたら私の知らない一面もあったのかも知れないです。
長々と語ってしまいましたが、私の22才までの3年間の新宿フェーズでした。 当時はおばが四谷三丁目で、飲み屋さんをしていました。
私の唯一のよりどころでした。
おばはその頃「新宿は三流だから新宿に染まるな」と何もかも初心者の私にあらぬ心配をしていました。 でもその言葉を今でも覚えているんですから、たかが言葉、されど言葉ですね。
今回の、イラストはつついさんにご提供いただきました。
色のコントラストがキレイです。 ありがとうございました。
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