大江健三郎作『水死』を読んで
なんだか最近は、大江健三郎さんの文章を常時摂取していたという状態です。
最近、仕事が大詰めにかかってきていて、すごく自分にストレスがかかっている感じがあります。出口があって、目標があるというのはいいことなのですが。
どこかで見たことがあると思うのですが、大江健三郎さんの小説には読む順番があるとのことです。
大江さんの小説は自身の経験や置かれた状況を題材に書いていると思うので、大体はその小説が発行された年代順に読んでいくのがいいんだとは思います。
大江健三郎さんのファンではありますが、4.5冊ぐらいしか読んでなくて、とてもマニアとは言えない状況です。
でも私は次に読む本として、『水死』を選びました。
(その前に読んだのは、『万延元年のフットボール』でした。)
『万延元年のフットボール』を読んで、私は大江健三郎さんが最後、どのような結論に辿りついたのかがすごく気になりました。
障害のある息子との共生、都市と地方、自由主義と伝統、天皇制などの問題を大江健三郎の作品を読みながら感じていました。
それらの問題を、ノーベル文学賞をもらうようなすごい作者さんが、最終的にはどのように考えたのかということが知りたくなりました。
(なんだか、タイムパーフォーマンスを重視する、すっかり現代人の自分を感じました。)
そんなきっかけで、『水死』を読んだのですが、内容はとても面白かったです。
読む前に思っていた、大江さんが人生をかけて現代の数々の問題を最終的にどのように考えていたのかという部分は、ぼんやりとしかわかりませんでした。
でもすごく勇気をもらったのは、主人公が障害を抱える息子に対して、「きみは、バカだ。」と言い、息子との関係性が崩れるという部分です。
長く息子と共に生きてきた主人公であっても、そのような感情的な言葉を口走ってしまう。
その包み隠さない部分に、矛盾に溢れている部分に、私は勇気をもらいました。
私はどんなことにも、結論が急速に求めらて、疲れていました。
結論のないことを考え続けること、ウジウジした感情を持っていることを恥ずかしいと思っていました。
そんな恥ずかしい気持ちを、やっぱり『水死』を読んで肯定してもらえました。
他にも、心に残った部分はあります。
それは演劇チームの一員の女性(ウナイコ)の性被害に関する部分です。
すごく暴力的に感じました。
その演劇チームで議論されていた、「明治の精神」と呼ばれていた時代の大きな流れ、それと暴力的なものを関連づけて考えました。
ウナイコの性被害に、私はとても腹が立ちました。
ウナイコの性被害の話を読みながら、
実は私は最近、仕事仲間にある失言をしてしまったことを思い出していました。
私は、どうしてバカな性犯罪を犯す男がこうも多いのかということを友人と考えていた時に、
自分の欲望を抑えられないという風に男性全体を見て、バカにする風潮がある
男性の欲望が、女性の何かのvalueを生み出している
と意見してしまいました。すると友人からお前は性犯罪を擁護しているのか、性犯罪が価値を生み出すと言っているのかと言われました。
そんな事を言っていないと私は言いました。
バカな犯罪を犯す男性がいることで、そこに乗じる人間が出てくる
そういう事を言っている と説明しました。
でも分かってくれませんでした。
後に私は失言について謝罪をしました。
思い返すと、私の失言だったと思います。
この言葉で言い表したかったことを、私の今のボキャブラリーではうまく表現できません。
このように感じているということを、私は否定して押し殺したくありません。
いわゆる財布と言われるような男性がいて、
利用する女性というカップルはいます。
そういう、互いの欲望の眼差しの交差に腹が立っています。
村田沙耶香作品を読んでいて、そういう感情が私の中に芽生えてきたんです。
村田沙耶香作品には、主人公の女性を理解する男性があまり出てこない。
私はおそらく、最低な感情を持っていると思います。
『水死』に話を戻します。
ウナイコの被害を読んでいて、腹が立った自分と、
男性のバカな犯罪を見て男性の足元を見ようとする人間がいるだろうという
2つ私の考えは、私の中に共存しています。
なんだか書いていてモヤモヤしてきました。
でもここに、この気持ちを書かせてください。
私は決して性犯罪を擁護しているわけではないです。
でも私があの時、発言した内容が間違っていたということは認めます。でもこの感情があるということは、私の中に間違った感情があるということは、大江健三郎さんの小説を読んでいて、はっきりと自覚できたので、ここに書いておこうと思います。
(なんだかよく考えて書き起こしてみると、そのような話を友人とする必要がないと思いますし、その友人とは衝突を繰り返しているので、しばらく会わない方がいいのだと感じました。)