大江健三郎作『沖縄ノート』を読んで

『沖縄ノート』は私が読み切るのに、一番時間がかかった大江健三郎さんの本です。

なぜか?
書かれた時代は1970年代と、50年程度離れていて、
その間に、沖縄と日本の間の感情的な関係が、私の周りの中で、大江さんが書いている沖縄と日本の関係から全く別のものになっていて、うまく感情移入出来なかったのです。

昨年、私は沖縄に行き、そこで沖縄の人から戦争の話を聞くことをしました。もっと前には、大学生の頃に、沖縄に行き、ひめゆりの資料館に行ったことがあります。

2回の沖縄の訪問で、どちらも観光というよりは、勉強に近いような日程で行きましたが、感じ方が全く違いました。
昨年行った時は、大学生の時に行った時に比べて、
沖縄にある理不尽のようなもの、
沖縄が日本の本州の文化とは全く違う文化圏の中にある場所なのだということを認識しました。
(大学生から、今まで、私の中の沖縄の受容体が進化したのだと思います。成長ですね。)

大江健三郎さんは、私がとても好きな作家で、だからこそ、その思想を知りたくなります。
特に障害をもった息子との共生に関する思想は、私にとって気になる思想です。大江さんの作品を読むと、自分が本当に苦しい時の感情を見つめ直すことができます。

沖縄ノートは、後半になると、大江さんの筆圧が強くなっている気がしました。特に<本土>という言葉に対する考察は、大江さんの主張を感じました。

<本土>とか<沖縄>という言葉が持つ、同質性に大江さんは四国の山の中の集落出身として、敏感に感じていたのだと思いました。
そして、その土地が持つ矛盾を、その土地にだけ背負わせるということが、暴力的であると考えているのだと思います。

(悲しいニュースや悲しい物語を読むと、私もまた、とても悲しい気持ちなります。最近、私は疲れているのだと思います。
どこかで大江健三郎の作品とは少し距離を置いた方がいいのかと思いますが、今は『「雨の木」を聴く女たち』を読んでいます)


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