岡田利規作『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を読んで
大江健三郎さんが好きで、大江健三郎さんがいいという小説を読んでいこうと思って、大江健三郎賞の作品を読んでみた。
小説の描写の語り手がコロコロと変わる。変わっていることすら、わからない。
でも、私の考えとか、思考も、言ってしまえば、そんなものである。
私はよく、人との境界が曖昧だと言われる。バウンダリーに難がある。
だから、人と長く一緒にいると苦しくなってくる。
その人との境界が曖昧になってきて、嫉妬心やら、感情やら、何かしらを一致させようとする働きが生まれる。
岡田利規さんの小説の、登場人物の話し言葉は、人の感情がゆらゆら動きながら、自分と他人の間を行ったり来たりしている感じが現れている。
だから、気持ち悪くなってくる。
教科書とか論文とか、「AはBだ」とかいう語調で話す人はそんなにいないじゃないのか。
「AはBだ」論法で思考していると、私は苦しくなる。
最近は考えていることを、涙が流れるように、何も考えずにノートに書きつけるという時間を意識的に取るようにしている。
(私がなかなか泣けないのと、なんとかポエムを作りたいと考えていることはどこか繋がっている気がする。)
(私は泣きたい。
この前、泣いた時、本当の自分、自分の内面の綺麗なものを水分に込めて、涙を流すことができた感じがして、気持ちが良かった。)
『わたしたちに許された特別な時間の終わり』には泣いている人は出てきません。みんな、近い人と自分の間で揺れています。
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