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『裏新人賞』#1

 短歌研究の9月号をいただいた。

短歌研究新人賞発表号である。

ほとんど期待などしていなかったが、案の定あまり美味しくなかった。

相変わらずのレシピでは、味が変貌することはない。

 以前から思っていたことだが、やはり、短歌研究新人賞は賭博だ。

読者のうちの五百人が、応募票付きの冊子代の千円を出し合って用意した賞金をくじ引きで選ばれた優勝者に授与するようなイメージ。

まあ多くの歌誌はもちろん、献詠短歌大賞や各自治体が募っている短歌賞も、大概は投稿料をせしめているから同様の要素はあるが、短歌研究新人賞は特に賭博性が高いと思う。

しかしながら不思議と受賞作品は、確かに素晴らしいし、紛いなく優秀である

 わたしがいうギャンブルの要素は予備選考の方法に尽きる。

作風の好みが大きく異なる四人の選者の誰に振り分けられるかで、投稿作品の不幸な側の運命はほぼ決まってしまうからだ。

A氏が一瞥で葬る作品でもB氏が読めば絶賛する可能性だってある。

選考座談会を一読すればわかるが、予備選考の段階では修辞などの技術よりもみずみずしさや意外性を重視して、明らかにそれぞれのフィーリングで選んでいる。

当然、フィーリングには合う合わないがあるので、最初に好みの合わなかった選者に読まれてしまった作品は、不運としかいいようがない。

とはいえ選者一人には、30首の連作が135作品なので4千首以上も振り分けられるわけだから、時間的にも深く読み進められない事象を責めるつもりはない。

ただ、第一段階では、相性の兼ね合いでその作品が、絶対に当たってはいけない選者がいると思うのだ。

では何故、前述のように受賞作品や次席作品は秀作なのか。

それは作者が強運を兼ね備えているからだろう。

投函日が一日、一時間ずれていれば、相性の合わない選者に振り分けられてしまった可能性もある。

正確に言えば、当たりは四分の一程度の確率なので、くじ運が然程悪くないといったほうがいいかもしれない。

 受賞、次席、ともに斬新性はともかくとして連作の定型率も高いし、メッセージ性もあるし、新人としての技術レベルも高かったと思う。

だからわたしは、そこには何の異論もない。

問題視しているのは、報われなかった秀作が佳作未満の作品群の中に必ず存在してしまうということだ。

だが、一読者であるわたしが、それを発掘することは非常に困難だ。

なにより、全応募作品の大半を占める佳作未満の予選通過作品として紹介されている二首は、あなたの詠草はこんなに面白くないから佳作にも満たなかったのですよ、ということを作者に知らしめるための二首であり、この方の作品はこの程度だから二首で充分でしょ、ということを読者に認めさせるための二首だからである。

三十ある連作の中の下位の二首をわざわざ選者がピックアップしているであろう詠草に違いないのだ。

もちろんこれは憶測であるが、わたしが選者ならば間違いなくそうする。

立場上、秀作と凡作を見極めるたしかな鑑識眼を応募者や読者にアピールする必要があるのだから。

 そんな中からではあるが、公開されたわずか二首から残りの二十八首を含めた連作のテーマや出来栄えを予想して、おそらく一次予選で外れ選者に当たっていなかったら上位に食い込んできたであろう、くじ運の悪かった作者を勝手に探し出した。

最終選考を通過したのは二十四名なので、同じだけの人数を選んでみた。

井上閏日、岩﨑雄大、宇野なずき、榎本愛生、織紙千鶴、加賀田優子、椛沢知世、北村早紀、小山美由紀、今野浮儚、左巻理奈子、静野恒一、榛葉純、鈴木あかり、高木啓、貴羽るき、戸田響子、原田彩加、ふらみらり、万仲智子、山内昌人、吉岡みほ、吉田奈津、若狭愛。(50音順、敬称略)

該当者がこの記事を目にすることはまずないと思うが、万が一発見したとしても、このド素人の選に喜ばないようにしてほしい。

ただし、一流の歌人である選者の方々と同じように、フィーリングで選んではいる。

作品の掲載はあえて割愛させていただくが、五十音順に列挙したので手元に歌誌がある方には、是非とも読んでいただきたい四十八首である。

この不運な方々の二首には、見えない連作の完成度の高さを予想させるストーリー性が、わたしには鮮明に見出だすことが出来たのだ。

だからこの二十四名がもし来年、これらの連作に多少の推敲は施したとしても、ほぼ同じ作品で最終選考を通過すればわたしの勝ちで、短歌研究社から相当の配当金をいただこうと思う。

短歌研究新人賞は紛いなく賭博であるのだから。

 ところで数年前に、新人の定義について議論が沸いたことがある。

だが、大方の意見として議論されていた、歌歴や歌集出版歴や年齢に制限を設けることなんてナンセンスだ。

ただし私は、応募は『一生に一回』という条件だけは必要だと思う。

こんな当たり前のことを提案する私が恥ずかしいくらいだ。

新人賞に毎年応募するという行為を平然と行っている歌人も、それを受け付けている主催者も、冷静に考えれば現状がこの上なく異常なことに早く気づいてほしい。

そんなことがまかり通ったら「初心に帰って、泥だらけでプレーしている姿を見てもらいたいと思っています」と、移籍のたびに言っている広島カープの新井貴浩さんが、17年間連続で新人賞に挑戦してしまうではないか。

主催者側としては、おそらく応募者が百人にも届かなくなり、賞金の捻出が困難になるので当案の採用はされないでしょうが、選者の負担軽減は間違いなくできるし、それは選眼の向上にも繋がると思う。

そしてなりより、応募する歌人がワンチャンスに渾身の力を賭けて仕上げた連作と、駄目なら来年もと思いつつ締切間際に仕上げた連作では、その完成度に大きな差がつくのではなかろうか。

永遠のルーキーがから騒ぎするムーブメントを他に知らない

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