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年末、三昧の中で本当の友人を見出す

Noteの更新が滞っていた、ほぼ一ヶ月。

別に、誰かから頼まれたわけでも、お金を取って有料記事を書いているわけでもなく、つれづれに創作にまつわる記事を書いてきただけなのだから、それほど切実に書かなくては思う必要はないのだが、やはり更新の間が空くと、どこか心がざわめき立ってきて、何か書かなくてはという思いが起こってくる。

気がつくと、一ヶ月近く更新していない。かつては、苦行のように毎日記事を上げていたときのことが嘘のよう。

では、この期間何をしていたのか? 別に知りたくもないかもしれないが、ただ小説を書いてた。ひたすらに。

最近、小説を書くのが楽しくてしょうがなくなったのだ。ただ書くこと。芥川龍之介の戯作三昧ではないが、「三昧」その妙味が何となくわかってきた。

これを言うと、お前のような三流文士に何がわかるかと言われそうだけど、ずっと一心不乱に書いていると、かつて、偉大すぎてピンとこなかった、先人達の思いや、思索の跡が、ふいに目の前のぷわぷわと湧いてきて、
「ようやくここまで来たか」と両手を広げて、心を開いて迎え入れてくれるようになってきた。気のせいでも何でもなく。

それこそ、芥川龍之介や、三島由紀夫、太宰治、プルーストやゲーテ、トーマス・マン・・・。今思うと、若い頃には理解できていなかった彼らの、思いや、願い、生きる姿勢、そして佇まいすらも、手に取るように掴めるようになったのだ。

あたかも、現実の中にいる友人のように。

そして、それは彼らの本を読むだけではだめである。しょうもない雑文を含めた全集を読み通し、彼らの思索の跡をたどり、そして、自ら創作する。この創作三昧の果てに、彼らはふいに家に訪ねてきた親友のように、突然やってくる。

そのとき、冗談でも何でもなく、本当にひとりの「人間」として、目の前に現れるのだ。そして、おもむろに話しかけてくる。

そして、彼らと話す。それは数秒で終わるときもあれば、数十分に及ぶこともある。ずっと聞きたかったこと、知りたかったこと。彼らは、ちゃんと、彼ら自身の声で答えてくれる。

現実の世界の人間相手では、めったにできない、貴重で、心から求めていた真実の会話を。

「小説を書くこと」、そこに、かつてはいろんな意味を考え、勝手にその価値や社会的意義をあれこれと考えていたが、
「虚実、時を超えた、本当の友人に出会うため」と、初めて思うようになった。

サリンジャーの映画の中の台詞ではないが、「何の見返りも求めず、ただ書き続けること」。その意味の一つは、自分の歩む道で、かつて遠く見上げていた人たちと、時を超えて再会することなのかもしれない。そして、彼らもそれを求めている気がする。

それは、きっと文学の道に限ったことでもなく、野球(おそらく大谷選手も、野球三昧の中でベーブルースと友人になったと思う)でも、サッカーでも、音楽でも同じかもしれない。なんでもいい、三昧の境地を持てた者は幸せだ。

現実の中の友人を見いだせない人(別に無理して見出す必要もないけれど)は、己が目指す三昧の世界の中でこそ、本当の友人、いやかけがえのない親友を見出すことだろう。そして、それは、そこらのちんけなはした金なんかより、よっぽどすばらしい僥倖であり、人生の財産になる気がする。

というわけで、更新が滞った理由をつらつらと述べたてきたが、言い訳になったようで、ならなかったようで。

来年は、新作をいくつか出す予定なので、そのためにももっと記事を更新しようと考えています。

それでは令和6年も、「仲村比呂」をよろしくお願いします。

いいお正月を、迎春。


夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com