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11月23日(日記)「友達」を定義するから苦しくなる

雨 
旅行が中止になって結果的に良かった。体調も良くなかったので。

最近、一つの出来事があって、特に関心もないので傍観していたら、第三者から「あなた、あの人の友達でしょう?」と、結構きついお咎めの言葉をいただいた。

しかし、その人は特に友達と思っていなかったし、知り合いとも思っていなかった。というより、そもそも今まで「友達」というものを、あまり、定義してこなかった。「友達だから」という概念がない。
人によっては、「友達」とは、こういうものだ。とスラスラ言える人もいるだろう。しかし、私には言えないどころか、そもそもわからない。

世の中では、「友達」という言葉に敏感な人も多い。本屋にも「友達なんていなくて当たり前」という友達不要論から、「一人だけ親友がいれば充分」、「友達の数が人生を決める」といった、友達至上主義まで、いろんな考え方の本が並んでいるのがその証拠だ。

しかし、私としては友達なんて、いなくてもいいし、たくさんいてもいい。それは、環境でも変わってくるし、人生の時期でも変わってくる。中学生の時、友達は一人もいなかったが、就職したての社会人の時、友人がたくさんいた。そして、今は端から見れば、きっと人並み以下だ。

結局のところ、友達なんて、いてもないくてもどちらでもいい。自分が快適に過ごせれば良い。
「友達」というのを、変な定義をするから難しくなる。友達という言葉に縛られることになる。

そもそも人は変わるもんだ。誰かをいちいち「友達認定」するから苦しくなる。「友達だろう?」、「最近、付き合い悪い」、「連れないなあ」とか。

そして、男性の間でも、意外に嫉妬のようなものが存在する。「俺たち友達だろう?」、「あいつと付き合うなら友達辞める」、逆に「最近あいつとつるんでばかりじゃないか?」、「あのとき、ああした、こうしてやっただろう」などなど、もうめんどくさい。いい年して友達自慢や、友達相関図など書いて悦に入っている人すらいる。

近いところで言えば、ガーシーさんの世界を連想すれば、何となくイメージが湧くかもしれない。

別に、気が合った人が、結局のところ遊び友達でも、ただの知り合いでも、たまたま遊んだだけでも、どうでもいい。極端なことを言えば、父親を遊び友達にしてもいいし、奥さんを親友にしたっていい。もっと言えば、亡くなった人、太宰治や、小林秀雄だっていい。

愛とは何かを定義するだけでも、一冊分の本ぐらいが必要なのに、友情もそう簡単に定義できるわけがない。それに、いちいち誰かと付き合うを基準は、理屈ではないと思う(ONE PIECEを読めば、そこらへんの機微が何となくわかる)。

一瞬で終わる恋があるように、一日だけの友情の場合もあるし、死ぬまで深く付き合う親愛の情もある。

まあ、自分としては、男女年齢関係なく、「気が合って何でも話せる人」が、一人でもいれば充分かな。ゼロはやっぱり寂しいかも。

人気なき 公園さまよい 秋桜 








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