俳句エトセトラ
どうでもいいことかもしれないけれど、
毎日、俳句(自由律俳句を含む)を最低ひとつは作るようにしている。
そしてなぜか一句できると、五月雨式に次々に作りたくなってしまう。
かつては、二十句連続で作った日もあった。
しかし、そのほとんどが不出来だ。だから、多くても三句ぐらいで敢えて留めることにしている。
このNote上でも多くの人が、俳句や川柳などを載せている。その中には、凄いと思えるような作品もある。
そして、そういった秀逸な作品が、世間一般に流布しないのが、残念に思うこともたびたびある。
川柳は、有名お茶屋さんのイベントしてペットボトルに載ることがあるようだけど。それでも、世間的認知度は極めて低い。
俳句は少し前に、テレビ番組の影響で、にわかにブームがあったが、それでもまだ物足りない気がする。秀逸な俳句や川柳は、もっと、ニュースやワイドショーなどで、取り上げられてもいいのになとは思う。第二、第三の俵万智さんなんどがどんどん出てくると盛り上がるだろうに。
個人的には、令和6年の最高優秀作品を決める、俳句界のM1グランプリみたいなのがあるといいんだけど。
といっても、今の若い子たちが、急に俳句や川柳に興味を持つとは思えない。アメリカのラップのノリで、有名タレントがこぞって造り出すと、ひょっとしたら大ブームが来て、凄い句を書く人がチヤホヤされる時代が来るかもしれない。まあ、来ないか。
それとは関係なく、俳句って単純にいいもんだなあと思う。一つの言語芸術としても、言語遊戯としても素晴らしい。
出来不出来は別として、自分が少しでも満足する一句で作れただけで、たまらなくうれしくなる。
そして、あるとき、ふっと世界の見え方、感じ方が変わっていることに気づく。それまで見過ごしていた、花や木々や、雲や月の美しさが、急にわかったりする。
昨夜と同じ道を歩いていても、見えてなかったものが急に視界に入ってきたり、これまで聞き逃していた音が聞こえてくるようになる。わからなかった匂いを嗅げるようになる。
句は言葉でしかないのに、なぜか五感の方が研ぎ澄まされていく。いつしか、日常の些細なことや、自然に季節の移り変わりにも敏感になっていく。
それが句を作るメリット? と面と向かって聞かれると辛いものがあるが、こうして物事をよりより深く感じられる喜びというのは、歳を重ねることの効用の一つだと思う。
聞いた話だと、五感だけは、若い頃に比べて数十倍研ぎ澄まされていくという。ただ物理的に衰えていくのを、鈍くなっていると勘違いしているだけだと。
確かに、若い頃にお茶を飲んだとき「ほっとする」とか、お風呂につかって「ああ極楽極楽」という実感を持つことは少ない。
そして、もう一つ句を作るメリットとして、自分にとっての不運や、辛い出来事や、不幸も、句にしてしまうと、どこかどうしようもない気持ちを突き放したようになって、気持ちが少し和らいでいる。
そういうのは、句だけではなく、小説や詩も同じ効果を持つだろうが、たった五、七、五の言葉の組み合わせだけで、こんな気分を得られるというのは、とってもお手軽でお得だし、日本語ならではの美点だと思う。
ただし、当然ながらデメリットもある。俳句や川柳と言ったものは、他の表現と同じく、中毒性がある。
あまりにも深く俳句にのめり込んでいって、生活などほっぽらかして、全人生を賭けて、句作りに精を出してしまう者も出てくる。
種田山頭火や松尾芭蕉のように。
最初は生活の彩りの一つ、ただの息抜きで始めたものが、松尾芭蕉が晩年には旅にあけくれ、種田山頭火が草木の中で酒に溺れてたように、たかが一句、されど一句、至高の作品のためだけに生きいくようになる。そうして生活と句が逆転してしまう。
逆に言えば、それだけの覚悟でなくては、良い句が作れないのだけれど。
だから、辞世の句というのは、豊臣秀吉や高杉晋作を始め、どの人の作品でもいいものだなあと思う。それは己の死に向き合って、ぎりぎりの精神の中で、人生を総括して作られたものだからと思う。
病に病んで 夢は枯れ野を 駆け巡る
こんな素晴らしい句が、死の最後に詠めたなら・・・。
と、ここで一句。
“ 死を前に 生の清濁も 句に消えて ”
うーむ俳句というのは難しい。