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かくしてすべては消去法に

自民党総裁選も終わって、お祭りのような騒ぎも一段落。
これだけ、総裁選が世の注目を浴びて、一種のセレモニー化したのは最近のことだっただろうか。先日の都知事選しかり。
どこか、かつては新聞報道だけだった、プロ野球のドラフトと似た部分がある。

自分が作家のせいか、選挙や、今回の総裁候補者などの政治家に対しては、ややひねくれた視線で見ている。というかあまり見識がない。
逆にSNSとかを見ていると、まあみんな、政治のことに詳しいんだなと感心してしまう。
政治理念や勢力図の話になると、自分はもうちんぷんかんぷんで、もうついていけない。

だから、万年政治素人としては、政治家を選ぶ基準は自ずから簡単になる。自分はただ、顔から選んでいる。
さらに言えば、「全体の佇まい」と言っていいのかもしれない。

今流行のルッキズムではないが、本当にただの印象で選んでいる。最近少し思ったのは、後ろ姿も大切だなあということ。
というのも、YouTubeでやっていた総裁選の決戦投票の中継のとき、最前列にいた岸田首相以下、力がある人はなぜかすぐに誰だかがわかった。男は背中で語るって、本当はこういう意味なのかって妙に納得した。

それに、普段の歩き方、そして笑ったり怒ったりしている感情表情が見られれば完璧だ。それらだけで、だいたいその人となりがぼんやりわかってくる。いくらでも嘘をつける千の言葉や、身についていない百の理屈もどこかに飛んで行ってしまう。

それって、そこらのおばちゃんの判断方法と同じだと言われればそれまでだけど、
理屈なしに、「この人は政治家として信頼に足る」人だと思えるのって大切なような気がする。

それは、選挙における政治家に限ったことではなく、民間企業でも、官庁でも、そして学校でも同じかもしれない。アイドルも顔だけで売れるとは限らないのは、その全体がアイドルとしての佇まいから、ファンになっていくのだと思う。

それでは、ちなみに今回の総裁選(投票権はないけれど)はどうだったのか? 
ごめんなさい。残念ながら「この人がいい」という結果にはならずに、消去法となってしまった。

しかし、考えてみると、国政選挙だけではなく、最近の地方議員の選挙でも、だいたい消去法で選んできたことに気づいた。
その佇まいを見て、
絶対に「この人に投票しよう、当選させたい」と思えたのは、もう思い出せないぐらい昔のような気がする。

そして、誰かを選ばなければならいという大切な場面で、「消去法」となるのは、経済界や、芸能界、そして、我々小説業界においても、重大な問題をはらんでいる気がする。

それは個人レベルでも、就職や、学校選び、伴侶選びなどの個人の問題においても、「消去法」で選ぶとだいたいろくな結果にならない。

「相対ではなく、絶対的なものを選ぶ」それは、ある意味生きることで、とても大切なことであり、選べること自体がとても幸せな状態かもしれない。

ちなみに今、何となく作家としての佇まいを感じる人といえば、高橋源一郎さんとか、北方謙三さんとか、京極夏彦さんとかな。そして、逆に感じさせないのが、村上春樹さんとか、吉本ばななさんとか、島田雅彦さんとか。それが、小説家界の隆盛と、何か関係があるのかないのか。

とにかく自分も、物言いや服装や言動ではなく、その「佇まい」で読者から信用されるような作家になれればいいなと思う。

“ 佇まい 国も人も みな大事 ”


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仲村比呂(nakamura hiro)
夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com