野垂れ死ぬのも才能が必要・・・詩を書く意味
人は本当に、追い込まれると色々考えてしまいます。
最後はその悩みや苦しみから逃げることだけで頭が一杯に。
ただただ、そこから逃れたい。
まだ、その苦しみをまだ意識して、コントロールできている内は大丈夫ですが、いつしか自覚なしに、鳴り響く警報器の音も耳に入らず、ふと踏切の遮断機を乗り越えてしまう。
それが、たぶん苦しみのオーバーフローなのでしょう。
自分さえ止めることができないのに、そこまでいくと、もう他人が止めることは不可能に近いでしょう。
そこまで行ったとき、他人が他人を救う。それは、果たして可能なのでしょうか。できるとしても、いったい何ができるのでしょうか。どんな言葉が必要なのでしょう。おそらく神の言葉ですら不可能なのに。
よく、昔も今も、無頼派を気取っている人が、「いつしか自分は野垂れ死んでやる」。「孤独に斃死するんだ」とうそぶいているのを耳にしますが、本当に野垂れ死ねる人は、ほとんど見たことがありません。
たぶん、そこにはある種の才能が必要だと思います。
その昔、即身仏の概念がありました。悟りの完成としての「死」。
言い換えれば、ただの半分自殺であり、まさに斃死です。しかし、そこに至るには長い修行と、修練を重ねてようやく出来る行為だと思います。
人は、自殺はできても、なかなか斃死などできない。そこには、才能とある種の適性が必要でしょう。
少なくとも、私は野垂れ死ねる才能も度胸もない。きっと、苦しみを前にあたふたして、宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩のように、オロオロ歩くことしかできないでしょう(寒さの夏に対してではないですが)。
話は戻りますが、他人が他人を救う、その可能性。
心療内科でもない、学校の先生でもない、両親でも、友人でも、恋人でもない。ましてや政治でも、宗教でもない。
やはり、最後は他人ではなく、自分が自分に語りかける言葉。それしか、救う方法がないのかもしれません。
そう言った追い詰められた自分に、やさしく語りかけられる「言葉」、救うことができる「言葉」、最後の最後に自分に語れる力を持てること、それこそが究極の「サバイバル能力」だと、私は思います。
そして、一流の詩人の詩とは、前述の宮沢賢治の雨にも負けずの詩もそうですが、おそらくギリギリに追い詰められた自分に対して発した、「救いの言葉」なのだと思います。
結果、宮沢賢治は、己の言葉に救われたに違いありません。しかし、その後の人生は、半ば斃死のようなものでしたが・・・。
自分が詩を書く意味。それは、きっと、いつしか自分の言葉で、自分を救いたいのだと思います。
ではまた