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12月15日(日記)一度だけ本を捨てたことがある

晴れ

本は新刊で買う。図書館では借りない。そして、絶対に本は売らない、捨てないことをモットーにしてきたが、過去にたった一度だけ、三十冊以上の本をまとめて捨てたことがある。

その作家のことは、ずっと大好きだった。デビュー作から、新作が出るたびに読んできたし、映画化されたら映画も観てきた。もちろんのこと、雑誌のインタビュー記事も丁寧に追っていた。

その小説家は、まさに時代をリードするとともに、エッセーも秀逸で、読んでいると叱咤激励され、いつも、頭を使ってちゃんと生きようと思わせてくれた。これ以上書くと、誰だかわかってしまうので辞めるが、ある意味、尊敬していた。

しかし、ある日、新作のエッセーを買って、ほくほくと読み進めていると、ある一文のところで目を疑った。

それは、「今、これを読んでいる、おまえのような奴が最低なんだ」という一文だった(正確な記述ではないかもしれません)。そこで、楽しく読んでいた手が完全に止まった。

「それは、ないだろう」。そして、続けてこう思った
「それを言っちゃあ、おしめえよ」と。

お金を出した、出さないは別として、それはあまりにも読者、それもファンを馬鹿にしているように思えた。それは、エッセーだけでもなく、音楽でも、絵画でも、映画でも、創作者として絶対に言ってはいけない、唯一無二の言葉だからである。

かつて、有名女性作家が、この小説家を「時代に完全にスポイルされてしまった」と揶揄していたが、そのとおりだった。

百歩譲って、書かれていた内容があらかじめ、少しでもわかって手を取っていたら、少しは許せたかもしれない。確かに、そういう本(作品)を選んだ自分にも落ち度があると。
しかし、それでもやはり、どんな文脈にしろ絶対に使ってはいけない言葉だった。

その瞬間、買ったばかりのエッセーの本をビリビリにやぶってしまった。そんなことをしたのは、幼稚園のとき以来だった(その絵本の主人公が、あまりにも可哀想すぎたから)。

それでもあきたらず、その人専用の本棚スペースに置いてあった本のすべてをひもで結ぶんでしまうと、廃品回収に出すべく、そのまま車庫の片隅につんでしまった。もう一秒も、近くに置いておきたくなくなかった(本には罪はないけれど)。

「たった、一言」、それだけで友人関係も、恋愛関係も終わってしまうことがある。まさに、それは突然の破局だった。

そもそも、本として活字になっている以上、そこには誰かの目を経ているはず。それでも、致命的な一言を読者の目に触れさせててしまったのは、ただ、作者、出版社の驕りでしかない気がした。

今では、その作家がテレビなどで見かけると、すぐにチャンネルを変えてしまう。噂によると、最近は、私小説ふうのノスタルジー小説を出したという。

その名を聞くと、昔に仲違いした友人を思い出す。・・・達者かな、もう会うことはないけれど、元気でやってくださいと。

少し、怒りにまかせて書いてしまいました。反省。

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