隠棲、隠居、隠遁、そして・・・
このところ、何かことあるごとに、頭の中に隠居とか隠棲という言葉が、浮かんでくる。
我ながら疲れているんだろうなあ、と思いながらも、
それらを行った先人たちに思いを馳せる。
方丈記の鴨長明、徒然草の吉田兼好、良寛、種田山頭火、外国で言えばサリンジャー、等々。
彼らは、人里離れた山の中や川沿いに、小さな庵や草庵を結び、晴耕雨読の生活をし、そこで高雅な文章や詩歌や書を残した。
若い頃は隠棲の意味は知っていても、それを行う理由がまったくわからなかった。どうして、わざわざ人里離れた山の中に、自ら隠れ住まなければならないのか。
はたしてそんな暮らしが楽しいのか。と思っていた。それは人生からの逃げだとすら思っていた。
しかし、いざそれなりに長く生きてきて、無茶が利かなくなってきた肉体、敏捷さが欠けてきた頭の働き。そして、自分自身を理解するが故の、自分の限界とキャパシティ。それらをひりひりと体感するうちに、少しずつ人が隠棲する理由がわかってきた。
きっと隠棲する理由は人の数だけあるかもしれない。しかし、自分に限って言えば、
ただ一言で言えば、
「疲れた」それに尽きる。
言い換えれば、お金、地位、名誉が評価される競争社会において、ある意味「おーりた」ってことであり、「棄権」したくなったということだ。
それは、ボクシングの選手のように、端から見ていてもうダメだと、リングサイドからタオルが投げられるような状態ではなく、あくまで自らが判断して、自らの意志でリングから降りるという意味で。
人というのはいつしか負ける。必ず負けるときがくる。
金儲けや、地位、名誉。幸せ、完璧な家庭、異性との戯れ。
そして、自らの肉体。永遠に続くと思われたそれらも、いつしか手のなからこぼれ落ちて、どうしようもない負けと直面せざるを得ない。
そして、何よりも、さまざまな煩悩をもたらす最大の敵である「自意識」との争いに負けてしまう。私は、自分に対する勝利者はどこにもいないと思っている(ひょっとして、大谷翔平選手は特例かもしれないけれど)。
そして、隠棲や、隠居というのは、人生の中での負けを自覚したときの、一番自然な身の処し方なのかもしれない。言い換えれば、負けた後の一つのモデルケースかと。
しかし、ふと世間を見回すと、そんな言葉を吹っ飛ばすように「人生100年時代」とさかんに言われている。
「一生現役」、「身体が動く間は働く」。そんな言葉が宙を舞う。
そして、そこにつけいるように、「定年後には何千万円が必要」。「老後の資産形成に気を遣いましょう」といった余計な助言だけではなく、
資格、趣味、投資、財テク。お金や生きがい不安につけ込んで、たくさんの儲け話が花開く。
本当に多くの人には、100年時代という言葉が、しっくりきているのだろうか。だまされていないか。
ただしょぼくれて、ぼんやり、ぼーっと過ごす老後では、いけないのだろうか。少なくとも自分は、「生涯現役」という言葉が大嫌いで、これを聞くたびに心からぞっとする。
きっと、あれは、まだ真の負けを知らない人たち、そして何かのために利用しようと画策する者達が使う虚言だと思っている。
100年、つまりは一世紀。そもそも、人間そんなに生きていたいと思っているのろうか。普通うんざりしないのだろうか。そして、死ぬまで働きたいと思っているのだろうか。
よく健康食品の通販番組とかで、これを食べれば大丈夫、元気よく町を闊歩できる。画面に映る生き生きした老人達の姿。どこかうさんくさくて、嘘くさいと思ってしまう自分がいる。
将来の自分を含めて、老人は老人らしく、諦めたようによぼよぼしていた方がいい。
ともかく、これまでの歴史には存在しなかった。超高齢化社会。
いったい、この老境という未曾有の世界をどう生きていくのか、どう生きていったら良いのか、過去を見渡しても、どこにも指標も教科書もない。
それはまるで、まだ社会もその成り立ちを知らない若者が、果てしない未来を見るような戸惑いと、不安に似たものと同じだ。
こと文学の世界に限っても、それは同じだ。尊敬する夏目漱石でも50台早々に亡くなっている。いうまでなく芥川も、あの森鴎外も今の時代に比べれば、かなりの早逝だ。ここにも、参考になるモデルケースはない。
もちろん、この老年期の扱いについては、世界を見渡せば、過去の人もずっと考えてきたのはわかる。
よく引き合いに出される古代インドの、人生を「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」という4つの時期に区切って、それぞれの生き方を示唆する「四住期」という考え方もその一つだ。しかし、これもあくまでいちモデルケースに過ぎない。
人がいつしか、人生の負けを自覚したとき、自らの引退、退場を決めたとき、果たして社会や家族に対してどういう態度を取るのか。どうとるべきなのか。それとも、そんな気持ちを振り払って、まだまだリベンジか、復活か、再チャレンジか・・・それもただの一つのケースでしかない。
そして隠棲はその中でも一番やりやすく、そして案外に決断に勇気がいる行為でもある。
老後の過ごし方に正解はない。正解がないからこそ難しい。同時に、人生最後の問題として、挑みがいがある課題でもある。
ともかく、最後は自分が決めなくてはならない。そして、悔いなく決められるのが、本当の意味で、人がきちんと老成する真価のような気がする。
そして、それを上手くやりとげられた人こそ、最終的な人生の勝利者かもしれない。
たとえ死後に、人から笑われようとも、ぶざまだと思われても。
“ 気がつけば つるべ落としの 庭仕事 ”
夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com