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「機動戦士ガンダム 水星の魔女」第一シーズンを観て

ガンダムのテレビシリーズを、リアルタイムで見るのはかなり久しぶり。いつのまにか追いきれなくなって、ずいぶん昔のシリーズを気が向いた時に見るだけになっている。

自分にとってガンダムは、Ζガンダムに始まり、Ζガンダムに終わっている感があって、他のガンダム作品を見るとどうしてもΖと比較してしまう。

ともかくリアルタイムで見始めた「水星の魔女」だけど、いきなり一話から、自分が苦手な学園モノ。うわーまじと思ったのも、最初だけ。第一シーズン終わりにかけて、急にシリアスな展開へ突入。その手法は、ずっと昔のΖΖガンダムを思い出させた。

やっぱり、ガンダムはシリアスではなくては・・・。と、つい思ってしまう。

自分にとってガンダムとは、手を変え品を変えながら、人類の限界と絶望、その超克の可能性を示してくれること。これまでのガンダムシリーズで出てきた、強化人間という現実だろうと、ニュータイプという理想も、その可能性を探る一つの試金石でしかない。

そもそも、ファーストガンダムからして、人類が地球にへばりついている限り、お互い殺しあって地球を荒廃させた果てに滅亡するしかない。という深い絶望から始まってる。

宇宙に出るとは、人間を超えるには人間を捨てなくていけないというジレンマの戦い。

今回の「水星の魔女」も、人類が宇宙への適応のため、人体に多大な負荷がかかるガンドフォーマットという技術を取り入れることから始まっている。
しかし、この技術はいいものだけど、人体にかなりの負荷がかかってしまうのが弱点。それを乗り越えるためにどうするか。

過去のシリーズでもそうだけど、結局は、戦争を通じての人体実験でしか証明できない。
果たしてそれは、人道的に許されるのか。それは、ユニコーンがダムのスピンオフ作品の、ナラティブを彷彿させる(ニュータイプと思われた女の子が、人体実験の生贄になる)。

今回のメインテーマである、肉体という枠を超えた意識。それが、ガンダムという兵器を操れることができるのか。そもそも意識というのは電子データのように何かに移せるものなのか。

当然意識体だったら、ガンドフォーマットによる身体への負担はなくなる。だとしたら水星の魔女さんは、いったい誰の意識を借りてくるのだろう。

きっと、第二シーズンでは、母親と娘の関係を含め、そういった「意識」を巡る、深い話になっていくのかもしれない(違ってたらごめんなさい)。

人類の限界というのも、しょせんは人類が考える範囲の中の限界でしかない。人類の思考の限界の向こうを見たいのなら、既存の理性や論理を超える必要がある。

主人公の、女の子は果たして、新しい人類の意識を、現世にもってくるための巫女なのか、ただの空っぽの触媒に過ぎないのか。

人類が、ニュータイプの覚醒を待ちきれなくなり、人類の滅びの詩が聞こえたとき、人は人身御供という名の下に、他人の命にどれだけ残酷に扱えるのだろうか。それが、裏のテーマだと思う。

それは、別にガンダムの世界の話だけではなく。現実においても過去にもそして、今でも起こっている。

第一シーズン最終話で、主人公が、愛する人を守るために、敵兵をガンダムの手によって、何の躊躇もなくハエを叩きのように、たたき潰して殺してしまう。

それはまさに、こうした過去から続く人類が抱える業そのものかもしれない。

そんなとき、ファーストガンダムの、
「人はそんなに都合良く便利にはなれない」という台詞を思い出す。
さらに、付け加えるなら「誰かの犠牲なしに」。

第二シーズンが待ち遠しい。

ではまた

 

 
 
 
 

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