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「私」がいっぱい(パート1.5)【17】

【17】補遺、風間君の質問をめぐって

 『〈私〉をめぐる対決』は、(森岡氏の進行・編集による)永井哲学への優れた入門書、あるいはその動態を一望できるマップの機能をもった書物なのですが、これまで私がその面をほとんど取りあげてこなかったのは、森岡氏の“悪戦苦闘”に寄り添うため、というか森岡氏がこの絶体絶命の苦境からいかにして脱し、“森岡の独在論”を構築してみせるかに注目してきたからです。
 その方針はこれからも(といっても、実質的には「対決」はほぼ完了している)貫くつもりですが、ただ今回の「風間くんの質問」をめぐる森岡氏の批判──「森岡の目からみたとき、ここでの問題設定そのものが間違っていると思える」(163頁)云々──は勝手が違います。
 私の目からみても、これは無用かつ不用意な“切り込み”でしかなかったと思える。(それが「無用」であるのは“森岡の独在論”にとって不要不急であるという意味で。また「不用意」というのは、“永井の独在論”を批判するため持ち出すには準備不足だったという意味で。)むしろ永井氏の“逆鱗”に触れて、過激かつ過剰な(しかし、その一方で永井哲学の“真髄”を垣間見せてくれる)反撃を招いてしまった。
 ですから、今回は森岡氏の議論に寄り添うのではなく、永井氏が自らの哲学について語った事柄のうち、私の“琴線”に触れた箇所を抜き書きすることに徹したいと思います。

 「風間くんの質問」とは、「いま現実にはなぜか〈私〉である風間維彦が、かりに〈私〉でなくただの風間維彦という人であったとしても、〈私〉でないその風間維彦さんも、この現実と全く同じように「なぜ風間維彦が〈私〉なのか」と問うであろうから、風間維彦は〈私〉でないことはありえないのではないか?」(『存在と時間 哲学探究1』330頁)というものです。
(森岡氏が「問題設定そのものが間違っている」と言うのは、「風間維彦が〈私〉であったり〈私〉でなかったりする」という個所に問題がある、という理由から。)
 永井氏は、かつて「これまでに有効に批判されたことがあるか?」と聞かれて、「風間くんの批判=質問」と答えた──「その[風間くんの質問の]おかげで私は西洋哲学全体を実感として掴んで「哲学者」になれました」──というのです(「夏の循環読書 2011.7.20」、『哲学の賑やかな呟き』261-262頁)が、正直に言って私は最初これを読んだとき、この質問のどこにそれほどのインパクトがあったのかがよく判りませんでした。
 後になって気づいたことですが、それは、つまり「風間くんの質問」が永井哲学に与えた影響の実質がよく判らなかったのは、私が既に「風間ショック」後の永井哲学にある程度親しんでいたから(具体的には『私・今・そして神』を部分読みを含めて十回以上は読んでいたから)ではないかと思います。つまりもはや当たり前の風景になっていて、それ以前との違いに対する「感度」がなかった。
 しかしそれでもまだ腑に落ちないところが残っていて、それが今回、森岡氏の批判に対してその「哲学的感度」の有無まで云々して敢然と繰り出された永井氏の再批判を読んで、かなりはっきりしてきました。
 以下、私の個人的な感想は控えて、永井氏の文章を『〈私〉をめぐる対決』から三つ抜き書きします。第一の引用文は先に述べた「当たり前の風景」に関するもので、第二の引用文が今回「はっきり」したこと、第三の引用文は「風間くんの質問」を契機にして始まった永井哲学の“最先端”の風景を示すもの。


◎〈私〉と《私》─「あるとき突然なぜか〈私〉ではなくなる」ことの想定不可能性
《風間の問いのポイントは、現実には〈私〉でない風間を想定しても、彼もまた「なぜ〈私〉は風間なのか(=なぜ風間が〈私〉なのか)」というまったく同じ問いを必ず問いうる(その意味で必ず〈私〉でありうる)という事実から出発している。それらはまったく同じ問いであると同時にまったく違う問いでもある。現実には〈私〉でない場合、それはもちろん「~にとって」付きの〈私〉にすぎないのだから、《私》であるにすぎないとはいえるのだが、〈私〉は、その同一性(持続)にかんしては、「~にとって」付きの「~」の同一性(連続性)に拠らざるをえない(すなわち《私》を経由せざるをえない)ため、この人格同一性(同じ人であること)によって〈私〉は成立してしまわざるをえない(のではないか)。これが背後にある問いである。言い換えれば、「あるとき突然なぜか〈私〉ではなくなり、たんなる風間という人になってしまう」ということ自体が、彼が記憶を喪失するといった実在的変化を想定しないかぎり、論理的に起こりえない(想定不可能な)ことなのではないか、という問いが背後にある。》(258-259頁)

 最後の一文に付された註。「ここには〈私〉と《私》の(それ自体が累進する)累進構造が働いており、ここが独在性という哲学的問題のキモであるのだが、私の見るところでは森岡の議論はこの事態を対象化してそれについて論じるということがなく、むしろつねにそれのどこかに乗って動いているように見える。」(259頁)

◎独在性という問題は本当はないかもしれない
《風間は逆に、自覚的にかどうかはわからないが、まさにその[独在性という現象の]哲学的・存在論的な謎の核心を、そこだけをいち早くつかんだのだ。いち早くというのは、だれよりも早くという意味であり、当然、私自身よりも早くであった。彼の問いは、どちらかが正しい答えか、といった答え方が可能な問いではなく、むしろ、独在性という問題は本当はないかもしれないと疑わせる力を秘めた、真に本質的な問題提起であった。》(261頁)

◎〈私〉の二義性、形式的・概念的な理解と直接的・実質的な理解
《…この問題は全体として形式的・概念的に理解することが可能であり、可能であるどころか不可欠でさえある、ということがすこぶる重要である。すなわち、接合される二種の世界は必ずしもともに現実世界である必要はないのだ。というのは、問題の他者への伝達はそのことを介するほかはなく、ここでのこの議論そのものがことによって初めて可能になっているからである。さらに、…このことが重要であるのはそれだけではなく、〈私〉とか「そこから世界が開けている唯一の原点」といった表現にはそれゆえに二義性があることになるからでもある。このような表現は、直接的・実質的に理解することも、形式的・概念的に理解することもでき、この現実世界で現在使われると、直接的・実質的な理解が即座に成り立ってしまうため、その形式性・概念性が飛び越されて即座に忘却され、直接的・実質的な理解に固執してしまいがちになるが、たとえば〈私〉や「そこから世界が開けている唯一の原点」が過去にあったとか未来に生じるといった時制変化を介在させるだけでも、話はそう簡単でははないことがすぐにわかる。》(272-273頁)

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