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「私」がいっぱい(パート1.5)【1】

【1】前口上

 もう、かれこれ四半世紀前の話になります。
 阪神・淡路大震災後の「インターネット元年」と呼ばれた時流に乗って、型落ちのマルチメディアパソコン(懐かしい!) Macintosh Performa 575 を購入。今から思うと子供のおもちゃみたいなものですが、当時、この13インチの(図体はでかかった)愛機は、夢の世界に開かれたドアで、通信速度と課金を気にしながら覗きこんだ“情報の海”は、どこかしら底知れない深さを湛えていたものでした。
 やがて、ネットサーフィン(懐かしい!)に飽きて、次にはまったのがメーリングリスト。哲学者・翻訳家の中山元氏が主宰する「ポリロゴス」に登録して、すぐに、長文かつ大量の常連投稿者になっていました。顔も素性も性別も知らないメンバーの存在を意識しながら、本を読んで考えたこと、思いついたことを“パブリック”な場に発表することに熱中し、ほぼ4年、週2本のペースで投稿を続けたのです。
 それらの文章は、私のホームページ「ORION」の、ショーペンハウアーの“Parerga und Paralipomena”を逆さまにして「補遺と余録」と名づけた場所に集録していて、今回、“続篇”を書こうと思っている「「私」がいっぱい」[http://www.eonet.ne.jp/~orion-n/ESSAY/TETUGAKU/17.html]という論考も、その倉庫の中に保存してあります。
 これは、森岡正博氏の「この宇宙の中にひとりだけ特殊な形で存在することの意味 -「独在性」哲学批判序説」[http://www.lifestudies.org/jp/kono01.htm]を批判的に援用(利用)しつつ、哲学者永井均氏の「〈私〉の独在論」について考えたものでした。
 その森岡氏が、永井氏との共著『〈私〉をめぐる対決──独在性を哲学する』(明石書店、2021年12月)の第3章「〈私〉の哲学を深掘りする」の註の中で、私のこの文章に言及し、「永井と入不二[基義]と森岡の議論を独自の視点から批評したもので、注目に値する」と、好意的に紹介してくださったのです。「ウェブの深海に沈んで読者からは見えにくくなっていると思われるので、注意喚起しておきたい」とも(同書207頁)。
 いわば“サルベージ”していただいたわけで、大変光栄なことだと思うと同時に、忘れかけていた“宿題”を思い出すことにもなったのでした。精確に言うと、しっかり覚えてはいたけれど軽々に手がつけられず、なかば忘れ(たふりをし)ていた課題に、いよいよ取り組むきっかけを与えてもらった、という次第。論考の最後に、私は、次のように書き残していたのです。「私がいっぱい」パート1をここで終える。パート2は、たとえば「物質と時間」といったタイトルで近いうちに再開したいと考えている、と。
 予告していた“続篇”を始めることにします。


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