「私」がいっぱい(パート1.5)【18】
【18】短い総括、エクリチュール、鏡像段階
第3章第5節。
引き続き森岡氏は、永井氏の最新作『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』の問題点を指摘しつつ、自論との近似点を探っています。その中には、「読者置き換え型解釈」(永井)と「二人称的確定指示」(森岡)の比較論という、興味深い話題があるのですが、詳細は「将来の著作」(187頁)に委ねられます。
また、「独在論の三種類の読み換え」──①〈私〉⇒「私」、②〈私〉⇒固有人名、③〈私〉⇒読者──も目を引くのですが、これは、永井氏による再解釈──①〈私〉⇒《私》、②〈私〉⇒「私」、③読み換えではない、強いて言えば複合的な読み換え(〈私〉の《私》化と「私」化の媒介、〈今〉の《今》化と「今」化の介在)による「自己同一性」の成立(277-278頁)──を通じて、永井哲学の領土に併合されるのです。
というわけで、今回は(今回もまた)、永井氏の論文(第4章第6節)の中から、もっとも刺激的だった箇所を抜き書きすることで、本書『〈私〉をめぐる対決』第Ⅲ部の総括に代えたいと思います。
《「そこに書かれている〈私〉をあたかもいま読んでいる自分自身であるかのように理解している」とき、そういう問題を考えている人物としての記憶とともに、独在性の形式的・概念的理解もまた介在し、経由されている。と同時にまた、〈いま〉にかんするそれと同種の読み換えも介在し、経由されている。この例では、文字化によってそのことがあからさまになっているが、この構造自体は通常の〈私〉の持続においても避けることができない。そもそも記憶という現象自体がこの仕組みの介在によってはじめて可能になるからだ。ちなみに、ジャック・デリダが自己同一性の成立に不可避的に介入するこの外在化の仕組みを、フランス人らしく隠喩的に「文字(エクリチュール)」と呼んだことは印象深いことであった。しかし私見ではむしろ、カントの「観念論論駁」におけるデカルト批判のほうが、機先を制して隠喩的でない精確な問題提起をおこなっていたと思う。》(278頁)
文中の「印象深いことであった」は、永井氏特有のアイロニカルな表現で、実際ここでも「しかし私見では…」と逆接の文章が続いています。
しかし私見では、永井氏にとってデリダ(やラカン)といったフランス人思索家の仕事は、その“文学的”衣装を取り去った“剥き出し”の着想や概念において、大きな位置を占めている(場合がある)のではないかと思いますし、この箇所でも、デリダの議論は結構永井氏の琴線に触れているのではないかと思います。そうでなければ、「精確」ではないと思う事柄についてわざわざ書かないと思います(普通は)。
私見を、というより思いつきを重ねると、デリダの「隠喩」を単なる文彩としてでなく、ある意味では文字通り、あるいは「文字」の概念を大きく拡張して受け入れると、森岡氏の「二人称的確定指示」の理解に役立つ見通しの利いたアイデアが得られるのではないか。たとえば、「文字は“仮面”である」とか「文字は“鏡”である」といった(隠喩に隠喩を重ねた)概念をこしらえることで。
いま私の念頭にあるのは、ラカンの鏡像段階論です。──清水高志氏が共著『今日のアニミズム』第六章の奥野克巳氏との対談の中で次のように語っています。「鏡像的関係が他者との間にあって、それを通じて自己をあらしめる、自己形成するという精神分析学の理論は、ラカンでももともとは生物にそうしたものがあるということも手がかりになって生まれたと言われます。」(328頁)
以下は、同書第五章の清水氏の論考「アニミズム原論──《相依性》と情念の哲学」からの抜き書き。文中の「幼児」を「あなたなのです!!」と二人称的に確定指示される独在的存在者、「鏡(像)」を「外在化の仕組み」(拡張された文字あるいは脳死の人)だと思って読んでみてください。
《ラカンによれば、生まれたばかりの幼児はいまだ統合された全体というよりは、盲目的でばらばらな欲動の寄せ集めであるに過ぎない。こうした幼児は、全体的な統一された身体の像を、鏡に映った自分の像として最初に見る。この像は、統一的で理想化された自己のイメージ(イマーゴ)であり、幼児はそれに愛着を覚え、自己として引き受けることによって、みずからを主体化しようとするのだという。しかしこの像そのものは、結局のところ自分とは異なる鏡像としての他者であり、この他者なくしては主体としての自己はあり得ない、という立場にかえって置かれてしまう。──自己の主体は、このとき鏡像の側に疎外されてしまい、その葛藤から鏡像は愛情の対象ともなるが、憎しみの対象ともなる、というのである。
こうした鏡像段階論じたい、そもそも生物が自分と同じ種を知覚することによって種としての成熟に至るという、動物生態学や生物学の研究を踏まえて語られたものであったことは忘れられるべきではない。》(『今日のアニミズム』252頁)
最後の一文に付された註。(〈私〉の生物学的基盤というものがもし考えられるとすれば、孤独相から群生相への移行はとても重要な現象になるだろう。)
「…ラカンは、心的因果性の問題に対することを説明するには異質な分野における事例であることをあらかじめ断りつつ、鏡像段階において他者の存在が必要とされることを説明するために、…サバクトビバッタが孤独相から群生相へ移行する際に、ある段階で自分とよく似たイメージの視覚的な動きに晒されることが契機となる例を挙げている。」(261頁)