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「私」がいっぱい(パート1.5)【16】

【16】承前、哲学的感度

 第3章第4節で、森岡氏は、かの「唯一最大の論点」に関する“新機軸”もしくは“新趣向”を繰り出します。そしてそれは、永井氏からの最終的な反撃を引き出すことになるのです。
 森岡氏は、「風間くんの質問」(次回取りあげる予定)に言及した際、そもそも「この問いの全体がどの視点から見られているのか」(164頁)──神か人物○○(永井氏の表記では「私」)かそれとも読者なのか──という論点を指摘し、これを別の角度から見るために「人物○○と〈私〉が連結される三つの段階」(165頁)を分析しています。

【第一段階】
・〈私〉という概念それ自体が(「〈私〉は人物○○である」という形式で)成立する。
・第一段階の〈私〉は「世界に実在はしないが、世界の中に〈私〉という在り方で占める位置がある」(167頁)。

【第二段階】
・第一段階で成立した〈私〉が、目の前の人物○○という場所に他の〈私〉があるというリアリティをもって生きる。
・「他の〈私〉」という概念を他の人物○○に連結させて日常生活を生きることができる。このときいったい何が起きているのか。「森岡はそこに「ペルソナ」概念が介入しているとの予想を持っている」(166頁)。

【第三段階】
・「人物○○が〈私〉である」という連結がなされる。
・第一段階と第二段階の連結は理解できるが、第三段階の連結は理解できない。「人物○○が〈私〉である」というときの〈私〉は「世界に実在しないだけでなく、世界の中に〈私〉という在り方で占める位置もない」(167頁)。

 森岡氏が言う「世界の中に〈私〉という在り方で占める位置がある」は分かりにくい表現ですが、たとえば「受肉」のことを考えてみるといいでしょう。父なる神がイエスに受肉して子なる神になり、その「キリストが私のうちに生きておられるのです」…。
 そのような解釈が成り立つとすれば、そしてまた「ペルソナ」を、「実在性」のレベルにおける神(=〈私〉)の存在様態を表わす語として受け止めるならば、(いや、おそらくそんな大袈裟なことでなくても)、森岡氏の三区分は、“永井の独在論”で言うところの〈私〉と《私》と「私」の区別に対応していて、森岡氏が言いたいことは、結局、第三段階の〈私〉は実は「私」でしかないのだから、これを〈私〉と言ってはならない(言えない)という、至極当然のことだったのだと理解することができます[*]。

(いや、ここは私の解釈ではなく、永井氏がどう反応したかを述べる場だった。)

 永井氏の応答は、“無視”と言っていいものでした。それどころか、森岡氏の問題意識を逆撫でするかのように、「なぜ〈私〉は風間なのか(=なぜ風間が〈私〉なのか)」といった表現を繰り出しているのです。
 さらに、森岡氏が「森岡は永井型の独在論の本質を理解していない」(168頁)かもしれないと、あくまで可能性として言及したことを受けて、「(そうであることは)間違いないと思う」(261頁)と切り返し、次のように書き加えているのです。私が前回“完敗”という語彙を用いたのは、永井氏のこの発言を踏まえてのことでした。
「彼の記述においては、この現象をめぐる哲学的な謎の部分がきれいさっぱり消えており、まるで独在性という現象が本当に[リアリー]ただ存在していて、それをこちらが自在に利用できるかのようなのである。(261頁)

 一点、つけ加えます。
 永井氏は、(「は」と違って)「が」は、特定の何かを並列的に存在する他の同種のものから区別して指す働きをするという「日本語学的事実」(265頁)に注意を促し、だから「〈私〉‘が’人物○○である」とは言えない、と書いています。
 そして、(人物○○と〈私〉の連結ではなく)、人物○○が属する「のっぺりした(平板な)世界」(267頁)と、〈私〉が属する「いびつな(奥行きのある・立体的な)世界」(267頁)との接合をめぐって議論を展開します。
 いわく、これら二つの世界の接合の事実の発見、もしくは接合点すなわち人物○○と〈私〉との同一性の発見は「いびつな世界」の側からなされるのだが、しかし「接合によって発見された事実そのものは発見の経緯とは独立」である。「この同一性はただ〈私〉の側から発見されるにもかかわらず、〈私〉の内部にある主観的事実のようなものではありえず、〈私〉に関する客観的事実でなければならず、客観的事実としてあらわれざるをえないのだ。」(268頁)

《…この接合点の発見(あるいは発見された接合の事実)は、もちろん「〈私〉は人物○○である」というように表現されても(しかるべく同一性言明ととられるかぎり)間違いではないが、むしろ「人物○○が〈私〉である」と表現されたほうが(問題の本質を外さないためには)より適切である。こちらのほうが、「人物○○が〈私〉である!」と末尾に「!」を付けた形の存在論的な驚き(存在の奇跡!)の含意が読み込みやすいことからもそれがわかる。》(271頁)

 最後の一文に註がついています。「この存在論的驚きを表現するためにであれば、むしろ「人物○○は〈私〉である!」[唯物論的独我論者○○の述懐!──引用者註]という文を使うのも深い味わいがあると思われる。」(272頁)

[*]あと一つ加えるとすれば、森岡氏は“永井の独在論”における《私》(その人にとっては〈私〉)の存在を認めていないように思える。この世界にいるたくさんの《私》が実はすべて〈私〉であると考えているように思える。永井氏が、森岡は〈私〉がただそれだけで(「実在性」のレベルにおいて)剝き出しで持続できると考えているのではないかと批判しているのは、たぶんそのことを言っている。
 しかし、そうだとすると唯一であるはずの〈私〉が複数存在することになり、論理的不整合をきたす。これを解消するための方策は二つあって、その第一は、《私》に代わる概念として「ペルソナ」(多にして一という特質を持つ)を導入しこれを精錬すること(究極的には〈私〉の概念を放棄するに至るまで?)。
 第二は──ニーチェの永劫回帰を「二度と起こりえないはずのこの今が、その内容だけじゃなくて、その‘この今’性をも保持したまま、繰り返す」こと、あるいは「かけがえのないこの時のかけがえのなさそのものの無限回化」(永井均『道徳は復讐である──ニーチェのルサンチマンの哲学』128頁)と解釈するように──すべての《私》は実はだた一人の〈私〉の無限個化なのだと考えること(それがどんな世界になるのか、そもそも世界と呼べるのか、呼べるとしてそれを世界と呼ぶのは誰なのか…)。

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