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「私」がいっぱい(パート1.5)【14】
【14】補遺、独在主義に基づく誕生肯定
第3章第3節に書かれていた事柄のうち、ぜひ(あるかもしれない後の議論への“伏線”として?)注目したい文章があります。長くなるので、最初と最後だけ抜き書きします。
《森岡が、独在的存在者とは誰なのか、その場所はどこなのかという問いに執着するのは、森岡の「誕生肯定の哲学」と深くかかわるからである。誕生肯定の哲学は、さらに広い「人生の意味の哲学」に包摂される。(略)主観主義は、人間の主観に着目して、それに他人が口出しをするのはおかしいと主張するが、独在主義はそのような「人間一般の主観」について云々するような考え方をすら拒否するのである。そうすることによって、いまこの文章を読んでいる読者の一度かぎりの人生というものの意味を真に立ち上がらせようとするのだ。森岡の「誕生肯定の哲学」は、この独在主義の次元において構想されている。森岡が永井の独在性の哲学にコミットせざるを得ない最大の理由はここにある。そして、森岡が独在性の読み換えの運動よりも、独在的存在者の場所のほうにより強い関心を持つ理由もここにある[*]。森岡が着目している独在性と、永井が着目してきた独在性が交わっていることだけは少なくとも確かであると思われる。》(156-157頁)
いろいろな読み方ができる文章だと思います。
たとえば、「人生の意味」が意味しているのが「リアリティ」の次元なのか「アクチュアリティ」の次元なのかによって、“森岡の独在論”と“永井の独在論”は、単なる「交わり」のレベルではすまない関係を切り結ぶでしょう。森岡氏が「リアリティ」の次元で「人生の意味」を考えているのだとしたら、それこそ両者は「噛み合わない」し、「アクチュアリティ」の次元なら、森岡氏が着目する独在性は、永井氏の独在性の世界を豊かに拡張することになる(かもしれない)からです。
(「アクチュアリティ」の次元における「人生の意味」とは、人生の“内容”とは一切無関係に、ただ今そこに「在る」こと自体に着目して考えられるものなのではないか。前回の註で引用した西行の(虚構の)述懐に出てきた「天地を包みこむ容器(うつわ)」(=歌)が、それ自体としては内容空虚であるものであったように。自問自答ながら、私はそう考えている。)
そもそも、森岡氏が言う「誕生」は、「私」もしくは《私》がこの世に生を受けることなのか(リアリティの次元)、それとも〈私〉が出現すること、あるいは「受肉」することなのか(アクチュアリティの次元)によって、議論はまったく異なったものになってくるでしょう。
これらのことについては、あるかもしれない後の議論に委ねることにして、ここでは、森岡氏が先の引用文の註で参照を促していた『生まれてこないほうが良かったのか?』(2020)第7章の中に、かの「唯一最大の論点」にかかわる議論を見つけたので、そのことを紹介したいと思います。
森岡氏はそこで、一般的な「ある人」についてではなく、この「私」が生れてくること、すなわち「生成」が悪であるかどうか、という問題を考察しています。そして、ここでもっとも重要なのは、この問題を考える「私という主体」それ自体が、出生という出来事によってはじめてこの世に存在するに至るという点である、と指摘します。
私が生まれてこなかったことがどういう状況なのかを、いまここにいる私が想像してみることはできない。なぜなら、そのような反事実的な状態を正しく想像するためには、それを想像しようとする私それ自体をも消去しなければならなくなるからである、というわけです。
これに対して、私が「存在」していないことに関しては、いまここにいる私がそのような反事実的な状態を仮想的に措定し、その状態が悪かどうかを判断することができる。というのも、「私が存在していない」状態については、それを想像している私それ自体にまでその否定の力は及ばず。私はいわば外側の安全地帯に立って命題を傍観的に考察することができるからである。
《私の存在を反事実化することは可能であるが、私の生成を反事実化することは不可能である。私は自身の存在の否定の外側には立てるが、私は自身の生成の否定の外側には立てない。まさにここに「生成」の「生成」たる所以がある。「生成」は力なのである。(略)私の非存在と私の非生成は本質的に異なっており、前者は措定可能であるが後者は措定不可能であるという命題を「私の非存在/非生成問題」と呼んでおきたい。これは新しく発見された命題である可能性がある。》(『生まれてこないほうが良かったのか?』287-288頁)
森岡氏がここで論じている「生成」と「存在」の区別は、ニーチェに由来するものです。私はそれを、「アクチュアリティ」(現実性)と「リアリティ」(実在性)の区別に対応させて考えています。つまり、〈私〉の「生成」(誕生)をめぐる「現実性」のレベルと、「私」もしくは《私》の「存在」(持続)にかかわる「実在性」のレベルの、二つの次元が区別されるというように。
そのような前提をおき、かつ「私が生まれてこなかった」状況を当の「私」が想像することはできないという森岡氏の、ややトリッキーで子どもの理屈のような(これは皮肉ではない、念のため)議論を受け入れるなら、次のようなことが言えるかもしれません。
すなわち、「人物○○が〈私〉である」は、本来「現実性」のレベルに属する事柄(生成=誕生)を、「実在性」のレベルの事象(存在=持続)として扱う無意味な命題である──「私が〈私〉でない」事態、つまり「私が誕生しなかった世界」を、その「私」が有意味に想像あるいは命題として措定することはできない──と森岡氏は主張していたのだ、と。
最後に、森岡氏の議論を私なりに図示してみます。図の上半分は、事実として想像可能(命題として措定可能)な領域を、下半分はそれが不可能な領域を示しています。
<生 成>
actuality
│
不 在 │ 存 在
│
━━━━━━━┷━━━━━━━
possibility reality
virtuality
<非生成>
[*]他人の文章に勝手に註を付けるのも失礼な話だが、永井氏がこの一文をめぐって次のように書いている(第4章第5節、262-263頁)。後の議論につながるかもしれないので、概要を抜き書きする。
いわく、森岡は「独在性の読み換えの運動よりも、独在的存在者の場所のほうにより強い関心を持つ」と言うが、これは驚くべきことである。そんな「暢気な分類」はしていられない、ということこそが独在性問題の本質だからだ。独在的存在者を切り離しそれに関心を集中するなどということはできない。「それを語ろうとするそのことの内で独在性のもつ(森岡の言う)「読み換え」の運動が必ず働き、その語りの全体をその運動の支配下に置いてしまうからだ。」
以上に述べたことを前提にして森岡の議論を捉えなおすなら、「独在主義」に基づく「誕生肯定」は、その本質そのものの内に不可避的に「誕生否定」の契機を孕んでおり、それによる浸食と汚染を免れない可能性がある。「もしそうだとすればそれは興味深い事実であり、また何かしらことの本質を突いているような印象が少なくとも私にはある。」