「私」がいっぱい(パート1.5)【3】
【3】森岡氏の戦略?
森岡氏は、なぜ“前期”もしくは“初期”の永井哲学にこだわったのか。私はこの問いに対する回答、というか仮説を二つもっています。
その一つは、この本のコンセプトそのものにあります。『〈私〉をめぐる対決』は「現代哲学ラボシリーズ」の第2巻として刊行されたもので、シリーズのねらいについて、森岡氏は「全巻のためのまえがき」で次のように書いています。第一に「哲学をする」こと自体への入門書をめざすこと、第二に「日本語をベースとした、オリジナルな世界哲学」(J-哲学)を作ること。
すでに“問題”を共有している者か、まったくの“初学者”かで違ってくると思いますが、第Ⅰ章の(さすが『まんが 哲学入門』の著者らしい)書き振りを見るかぎり、森岡氏が想定しているのは「哲学する」ことの“初学者”、ただし、この本に(というか、この本のタイトルに惹かれて)手を出す程度には“問題”を共有できる相手だと思います。
そのような読者層を念頭において、森岡氏は、永井哲学の「入門部分を分かりやすく解説」しているのです。──〈私〉とは、「世界の中でただひとりだけ特別な形で存在している」ような私の在り方のことを指す。しかし、そのような在り方(独在性)について公共言語で語ろうとすると、誰にでも等しく当てはまる「私」の在り方へと自動変換され、私が最初に言いたかったこと(〈私〉の独在性)は伝わらず消去されてしまう。
これに対して永井氏は、第Ⅲ部の応答で、この「解説」では〈私〉の不思議さをめぐる「存在論的な驚き」が充分伝わらないし、またこの不思議さには「その人がどういう人であるか」が全く関与していないこと(〈私〉の存在は世界の因果関連から外れていること)が明確に表現されていない、と批判します。これらのことをしっかり書かないと、独在性の問題と一般的な意識の私秘性の問題(たとえばクオリアをめぐる)とが混同されてしまい、「多くの読者は問題の真の意味を理解することができないだろう」(212頁)と。
いくら「分かりやすく」といっても限度がある、ということなのでしょう。この批判は正しいと思いますが、しかし永井氏自身、少なくとも“前期”もしくは“初期”の段階では、独在性と私秘性を明示かつ厳密に区別して論じていなかったのではないか(むしろ、クオリアを典型とする意識の私秘性にのっかって、〈私〉の独在性を議論していたところがあったのではないか)と私は感じていますが、これらのことはいずれ「パート2.0」に本格的に取り組むなかで精密に検証しないといけない。
ともあれ、“初学者”相手に、いきなり独在性と私秘性の区別云々の議論を持ち出すのはハードルが高い、まずは誤解を恐れず、“問題”の直感的な雰囲気を味わうことから始めて、徐々に「哲学する」ことを追体験してもらえればいい。そのためには、“前期”もしくは“初期”永井哲学の、“子ども”の「哲学的感覚」(私はこれを“哲覚”と呼んでいる)に根差したスリリングで眩暈的な(かつて私も魅了された)議論がとっつきやすい。
勝手な推測ですが、森岡氏による本書の編集方針、というか“戦略”がこのあたりにあった可能性はあると思うのです。