「私」がいっぱい(パート1.5)【15】
【15】哲学的感度
第3章第4節で、森岡氏は、いよいよ“中期”と“後期”の永井哲学(のいわば本丸)に切り込みます。そしてそれに伴って、永井氏の批判の舌鋒も一段とその厳しさを増していくのです。
たとえば、『私・今・そして神』におけるカント原理とライプニッツ原理の対比をめぐって、森岡氏がもっぱらカントを否定的に位置づけたことについて、永井氏は次のように書いています。──「これは(〈私〉と《私》の対比とはまた別の)〈私〉と「私」の対比の問題である。〈私〉の持続・連続性は何によって保証されるのか、という問題にかかわる際にはこちら[カント原理]を無視することはできない」。にもかかわらず、「なぜか森岡はこの問題系(の存在自体)をまったく無視して」おり、「この問題関連に興味がない(感度がない?)」。(256頁)
また、『存在と時間 哲学探究1』の付録「風間くんの「質問=批判」と『私・今・そして神』」への森岡氏の言及に対して。──「私の見る限り、森岡の理解は彼[風間くん]の問いの深さと広がりをまるで理解していない」(260頁)。
「おそらくは森岡は独在性という不思議な現象が存在していること自体は捉えているのではあろうが、事実としてそういう現象が存在しているのだと単純に受け入れており、なぜかその不思議さということにあまり心が動かされておらず、したがってそれが存在している(といえる)ことの内にあるある捉えがたい種類の哲学的な謎にほとんど感度を持っていないように見える」(261頁)。
「(少なくとも私の意味での)哲学に関心を持っていないように私には見える」(262頁)。
今回(第4ラウンド?)は、森岡氏の“完敗”だと私は見ています。もちろん、二人は勝負事(ゲーム)を楽しんでいるわけではないし、また“負けた”といっても、それは永井哲学の土俵(=哲学観)の上での話であって、森岡氏の議論(精確には、森岡氏がほんとうに論じようとしたこと)が意味や価値を失うわけではありません。
森岡氏は、自身が取り組みたいテーマ(たとえば「人生の意味の哲学」)へのアプローチの基礎を固めるため、「永井の独在性の哲学にコミットせざるを得ない」と思っています。俗な言い方をすれば、“永井の独在論”を自身の思考圏内に囲い込みたい。そのためには、どうしても拭えない「違和感」を解消して(永井哲学が孕んでいる“誤り”を正して?)、“森岡の独在論”のうちに呑み込みたい。
だから、いくら強烈な反撃を浴びても(無視されても)──哲学的な「感度」や「関心」の欠如を疑われても[*1]──懲りずに(失礼!)何度もチャレンジしていく。そういう“闘いの姿勢”を取りつづけること(大袈裟に言えば、自らの(哲学的な)“死”を賭けたギリギリの思索を継続すること)を通じてのみ、自身が構想する「生命の哲学」が“本物”になると確信して。
(実は、私はもうずいぶん前からそんな読み方をしている。森岡氏に“肩入れ”して本書を読んでいる。それは“判官びいき”などではなく、私自身が(あるいは私もまた)前々回に書いた関心事をめぐって、永井哲学を“利用”しようとしているからにほかならない[*2]。)
その意味で、本書『〈私〉をめぐる対決』は、森岡哲学にとってのインキュベーターであり、その産みの苦しみを赤裸々に記録した「悪戦苦闘のドッキュメント」であると言えるでしょう。
[*1]永井氏はツイッターで「『意識と本質』を始めとする井筒俊彦の諸著。イスラム学的には知らないが哲学的意義は皆無ですよ」(2021.10.14)とか「井筒俊彦は単に哲学の素人であるにすぎない」(2021.10.15)と書いている。
『遺稿焼却問題』に収録されたツイートには、井筒俊彦と吉本隆明の「二人とも哲学的なセンスが(非常に似たような仕方で)全くない」(2019.01.20、194頁)とある。「井筒俊彦のイスラム哲学理解の精度を疑っている」とか「井筒という人は…実はシャーマンのような人だったのではなかろうか。しかし、まさにそれゆえに、その宗教的直観は意外なほど平板で、やはり安っぽい」とも(2014.02.01、78頁)。
ここで言われる「哲学」は「私(=永井)の意味」での哲学である。すなわち、哲学は思想ではない(『〈子ども〉のための哲学』)とか、特別の種類の天才の傑出した技芸の伝承によってしか哲学の真価を伝えることはできない(『私・今・そして神』)とか、哲学書は「台本」だ(『なぜ意識は実在しないのか』)といった哲学観のもとで見られた哲学のことである。
私は井筒俊彦とは違った意味で(字義通りの)哲学の素人だが、永井氏の哲学観には全面的に賛同している(つもりである)。その上で井筒俊彦(や森岡正博)の哲学“的”思想に惹かれ強烈な刺激を受け、その思索(技芸)は「心から心へ伝ふる花」として伝承されるべきものと考えている(し、永井氏が井筒俊彦(や森岡正博)の思想や理論を否定しているわけではない──そもそも否定などできない──と考えている)。
一点付記すると、永井氏が繰り出す「素人」や「平板」等々の刺激的な語彙は逆説的な意味を持っている。私は井筒俊彦(や森岡正博)の思想に時として「退屈」を感じるのだが、これも同列の語彙である。
[*2]私の関心事というのは、司馬遼太郎との対談で井筒俊彦が語った「古今[和歌集]、新古今[和歌集]の思想的構造の意味論的研究」にかかわるものだが、それが最近途方もない“大風呂敷”に包まれるようになった。
きっかけは武田梵声著『野生の声音──人はなぜ歌い、踊るのか』や三浦雅士著『考える身体』『スタジオジブリの想像力──地平線とは何か』を同時並行的に読み進めるうちに、かつて刺激を受けた中沢新一著『狩猟と編み籠──対称性人類学Ⅱ』などと融合して一つの壮大な人類史的想像をかきたてたことにある。
……人類が長い時間をかけて言語を獲得したとき、そのような「インメモリアル」(坂部恵『かたり──物語の文法』)な過去における出来事と同時に、後に宗教(アニミズム・シャーマニズムから一神教・多神教・無神教まで)や芸術(詩・音楽・舞踊・映画・美術・建築)や哲学(数学を含む、精確には「哲覚=数覚」の学)へと分岐していく、ある超越的な心身と世界の(変容)体験がもたらされた。その体験の核にあった(し今もある)のが、永井氏が(おそらく人類史上初めて)言語化=概念化することに成功した(しつつある)「独在性」にかかわる原体験、いわば「独在感覚」の受容であった。……
宗教や芸術の領域に「宗教人類学」「芸術人類学」があるように、哲学にも「哲学人類学」が必要だ。それは宗教・芸術・哲学のうちの一ジャンルにかかわるだけでなく、それらに共通する根源現象すなわち「独在感覚」を解明するものでなければならない。
(成田悠輔氏が、「メタバース」(ネット上の仮想空間)のアバターを通じて1万人と同時に恋をすることができるようになったとき、「他の誰でもない私」や「何ものにも代えがたいあなた」という概念(アイデンティティーの独自性)は意味をもつのか? という問題が生じると指摘している(朝日新聞GLOBE、2022.05.01)。このような(実は非哲学的な)問いに応えるのも、永井哲学に発する「独在性」もしくは「独在感覚」をめぐる「哲学人類学」の仕事だろう。)
──森岡氏が独自の思想的・理論的な思索、たとえば“森岡の(貫通型)ペルソナ論”の構築へと向かわず、あくまで“永井の独在論”にこだわるのはぜかという問いに対する答えがこのあたりにある(と思う)。