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推論的世界【15】
【15】プロダクション─“推論”をめぐって(7)
第四の推論様式である「生産」について、いまのところ私は、「プロダクションとは、たとえば、芸術に関する理論や理念について多くを語るより作品一つ創ってみせる、あるいは、生命誕生の機序を云々するより人工生命を現に造ってみせる、もう一つ例を挙げると、天地創造は神の思惟=推論の具現である、といったかたちで遂行される推論のこと」(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第7章第4節)という、きわめて雑駁な定義しか持ち合わせていません。
本稿第1節では、「あらかじめ設計・直観・想像され夢みられたものを生み出す推論」(「仮面的世界」第31節からの援用)と、やや限定的な言い方をしましたが、それは、「伝導」に与えた定義──「前後の世界の連続性が断ち切られるほど奇跡的な出来事(無からの創造)」──との違いを際立たせるためであって、基本的なアイデアに変わりはありません。(私の脳内では、アブダクションとプロダクションとコンダクションの三つの“創造的”な推論様式が、分化しきれないままま絡まっている。)
このことに関連して、その後の“知見”をひとつ追補しておきます[*]。「仮面的世界」(第31節の註2)で、広狭二義の仮面記号に対応する比喩形象と推論様式に対して、私は次のような論理詞表現を与えました。「あらかじめ夢見られたものの具現化」と「無から有の創造」との違いを、「¬A=A」と「¬A⇒A」の書き分けによって表現したものです(うまく表現できているかどうかは別として)。
【狭義の仮面記号(マスク)】
:逆喩(オクシモロン) :生産(プロダクション):¬A=A
【広義の仮面記号(アレゴリー)】
:寓喩・反語(アイロニー):伝導(コンダクション):¬A⇒A
さて、これで終わったのでは“尺が足りない”ので、ここで、淺沼圭司氏の『映ろひと戯れ──定家を読む』と『制作について──模倣、表現、そして引用』の議論を取りあげたいと思います。そこで論じられている「引用」という芸術制作の技法が、私が考想している「生産」の概念にとても近しいと感じるからです。
以下は、「哥とクオリア/ペルソナと哥」からの自己引用です。前段は第13章第7節から、後段は第58章第5節からの抜き書き。
……淺沼氏は、定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけりうらのとまやの秋のゆふくれ」をめぐって、次のように書いています。いわく、この歌は、「見わたす」主体と「見わたされる」対象(客体)の対立と緊張関係をその根柢にもっている。しかし、「見わたされる」対象は現実の光景ではなく、「花」「紅葉」「浦」「苫屋」「秋」「夕暮」という、「歌語の体系」あるいは「感性的言語の体系」とでもいうべきものから選び取られ、配列された語によってかたちづくられた(現し出された)、独自の感性的性質ないし「イメージ」にほかならず、また、「見わたす」主体は、現実的状況のなかで悩み、苦しみ、不満をもらす現実的存在なのではなく、美的世界でのみ生きることを選択した歌人(美的実存)であるとみなすことも、たしかに可能だろう。
ここに出てくる二つの項、すなわち、芸術制作にかかわる「対象」と「主体」について、淺沼氏は、制作において対象的契機が主体的契機に優越する場合を「模倣」と、対象的契機と主体的契機が同等の立場で緊張関係を形成する場合を「表現」と、そして主体的契機が対象的契機に優越する場合を「表出」と捉えたうえで、そこに第三の項としての「媒体」(もしくは「質料」、「材料(マティエール)」)を導入し、媒体的契機の(他の二つの契機にたいする)優越をめざす「もうひとつの制作」の可能性(「具体的には、視覚的性質──線、形態、色彩──そのものにたいする反省と、その特性の探究を目的とする絵画的制作、あるいは言語にたいする反省と、そのものとしての言語の実現──たとえば、日常的使用のなかで覆いかくされた言語本来のすがたの開示──をくわだてる詩的制作、など」)を考察し、そのような制作のあり方に「引用」の名を与えます。
《定家の歌が、イメージによるイメージとして、ある種の自己言及性を、そしてメタ・イメージ(メタ言語)的な性質をもっており、通念的な「対象─主体」関係がそこでゆらいでいることは明らかであった。定家が、その歌と歌論の双方において、「本歌取」の技法にたいしてもっとも自覚的であったことは、おそらく否定しえない。そして「本歌取」は、既存の「歌語の体系」──歌の総体──から特定の「詞」(語ないし句)を任意に選択し、切り取り、それらの「詞」を任意に配列することによって、あたらしい統一的なコンテクストを形成することにほかならず、その点で「引用」として捉えられるものであった。短絡的に結論を急ぐことは避けなければならないが、通念的な──「対象─主体」関係を根柢においた──制作の枠組内のもろもろの技法のひとつとしての引用ではなく、その枠組を逸脱した、もうひとつの制作そのものとしての「引用」が存在すると考えることには、相応の根拠があるのではないだろうか。対象的契機と主体的契機のいずれかにたいして、あるいはその双方にたいして、媒体(マティエール)の透明化をくわだてる制作(技法)とは別の、対象的契機と主体的契機のいずれをも可能なかぎり媒体的契機の背後に消滅させることをくわだてるもうひとつの制作(技法)としての「引用」。》(『映ろひと戯れ』200-201頁)
私は、淺沼氏がいう「主体/対象/媒体」を、パース記号論の「記号(レプリゼンタメン)/対象/解釈項」に、より根柢的には、パース現象学の「第一次性/第二次性/第三次性」(パース三体)に、(さらには、丸山圭三郎氏が『言葉と無意識』で、「欲動/深層のパトス/表層のロゴス」になぞらえたラカン三体に、ひいては、貫之の「よろづ/人のこころ/ことのは」もしくは「物/心/詞」に)、それぞれ関連づけて考えることで、(狭義の)貫之現象学の世界を読み解いていく手がかりをうることができはしまいかと考えています。
そして、淺沼氏の三項関係のうちの第三のものである「媒体」を、ベンヤミンの「媒質」(としての言語)の概念に関連づけ、そこに、「神」もしくは「絶対的なもの」の方へ向かう垂直次元の運動を導入すことで、淺沼氏が提示した「表出」「表現」「模倣」「引用」という芸術制作の四つの技法の位置関係を見きわめることができはしまいか、(それはおそらく、「空虚な器」としての歌体がもつ「運動的図式」をあらわすもの、たとえば、「物」「心」「詞」「姿」の四つの項からなる「哥の伝導体」のごときものになっていくのではないか)、さらに、俊成、定家を包摂した(広義の)貫之現象学の世界を解明する手がかりをうることができはしまいかと考えているのです。……
……表現、表出、模倣、引用という四つの制作技法のうち、媒体的契機が優越する「引用」をめぐって、淺沼氏は、『制作について──模倣、表現、そして引用』の第四章「表現の解体あるいは引用への道筋」で、「その統一の根拠を媒体そのものにもつ作品とは、いったいどのようなものなのだろうか、あるいはむしろ、そのような作品は実際に存在可能なのだろうか」(269頁)と問いを立て、(そして、モネ晩年の作品、たとえばオランジェリ美術館蔵の「睡蓮」の連作やマルモッタン美術館所蔵の「睡蓮」連作のためのスケッチなどに予告的に示され、あるいは萌芽としてふくまれていた「表現の自己解体とそのあとに絵画がたどるだろう道筋」(281頁)について検討し、音楽や文学(小説)といった他の領域についても敷衍したあとで)、次のように括っています。
《[表現解体の]「はて」における各領域の制作のありかたは、きわめて多様であり、ひとつの枠でくくることはできないが、それらに共通するものとして、既存のものごとを、それにたいするなんらかの操作によって、べつのものごとに変換すること、一言でいえばひろい意味での「引用」をあげることができるのではないだろうか。そして、そのことからいえば、表現の解体にいたる道筋とは、「引用」に通じる道筋だったのかもしれない。ところで、「引用」と密接に関連するものとして、ヴァルター・ベンヤミンのいう「展示価値」(der Ausstellungswert)をあげることができるだろう。なぜなら、「展示」とは、既存の対象(作品)を、それがおかれている脈絡──聖域としての本来の場──から切りはなし、まったくべつの脈絡──ひらかれた場──におくことによって、あらたな対象に転化すること──あらたな価値を付与すること──にほかならず、その点であきらかに「引用」に通じるのだから。》(『制作について』340-341頁)
ここで言われる「広い意味での「引用」」に通じる「展示」をめぐって、淺沼氏は「ベンヤミン小論──理論史の観点から」(山田幸平編著『現代映画思想論の行方』所収)で、次のように論じています。
いわく、ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」(淺沼訳による読みくだしでは「芸術作品を機械技術的な手段によって複製することが可能な時代においては、芸術作品そのものはどのようなありかたをするのか」)において、「展示価値」を「礼拝価値」ないし「アウラ」と対置していること、また、アウラ的な芸術作品が「起源的なものの感覚へのあらわれ」として、「エイコーン」としてとらえられるのに対して、「なんらかの材料の主観による形成によって生じ、主観にたいしてあたえられる形象」であり「純粋な表面」である複製は「パンタスマ」としてとらえられるべきである。
またいわく、ソシュールが「語において重要なのは、音そのものではなく、語を他の語から区別することを可能にする音声上の差異である」云々と述べたように、「複製=パンタスマの価値とは、「展示」による相互的な差異化によって顕在化した感性的性質であり、その差異に根拠をもつ意味作用にほかならないだろう」(15頁)。
《「展示」は、起源からの切り離しであり、切り離されたもの(断片)の任意の配列にほかならないのだから、あきらかに「引用」としてとらえられるだろう──ベンヤミン自身も「引用の根拠には切断(das Unterbrechen)がある」と述べている。断片は、それを超えたもの──起源的なもの──によってその位置をあらかじめ定められてはいないのだから、ひたすら相互に戯れるだけであり、その戯れによって織りなされたものは「テクスト」としてとらえられるだろう。映画──複製技術による制作──の所産、「アウラ」を失った芸術作品とは、「テクスト」にほかならない。ベンヤミンは、「アウラ」の否定と「展示(引用)」による「作品」から「テクスト」への転換に、ダダイズムと映画の共通性をみたのではないだろうか。》(『現代映画思想論の行方』18頁)……
[*]いま一つ付け加える。以下は、永井晋氏の論考「未来の現象学──受肉からマンダラ」(『未来哲学別冊 哲学の未来/未知なる哲学』所収)から、ミシェル・アンリの「非志向的な生の現象学」をめぐる一節を切り出したもの。ここで「生の本質は自己産出である」と言われていることが、「プロダクション」なる推論様式について考えるうえで決定的に重要なヒントになるのではないか。
《志向性は意識として原印象に対してその外から。つまりそれが原的に与えられた‘後で’、それを綜合・統一するという形でしか関わり得ない。その深い理由は、過去把持(志向性、意識)は現象の「形式」であり、それゆえその「内容」とみなされた原印象を自ら「‘生む’」‘ことができない’からである。アンリが彼の時間分析の決定的な箇所で強調しているように、形式と内容は「見ること」をモデルとしたギリシャ哲学に由来する概念であり、それらは相互に外的で、形式が内容を生む、あるいは創造することはできない。過去把持の外からの介入を全て断ち切って原印象そのものに、というよりもむしろ原印象を通して生そのものに直接、つまりその内部から接近できるのは生だけであり、それは‘生が生自身を生むこと’によってなのである。それが、志向性では生に決して接近できない深い理由である。》(『未来哲学別冊』65頁)