文字的世界【19】
【19】存在はコトバである─ベンヤミンから井筒俊彦へ
ベンヤミンの言語論から見えてきたものを一言で括ると、神の語や純粋言語が棲息するメタフィジカルな帯域(実相)と、根源的産出・原ミメーシス・非感性的類似性といった概念がインキュベートされるマテリアルな帯域(実相)との中間地帯に、人間の諸言語が稼働する区画が設えられていること、となるでしょうか。少なくとも私は、そのような関心をもって、謎めいたベンヤミンの秘教的言説に接してきました。
このことを空間的に表現すると、上方(メタフィジカルな帯域=実相)と下方(マテリアルな帯域=実相)を結ぶ垂直軸に直交して、人間の言語の(“メカニカルな”と形容しておきたい)帯域が水平方向に拓かれる、となるでしょう。少なくとも私の直観するところでは、この水平軸の左方が「字」の、右方が「声」の固有の領土となります(「韻律的世界」第4節および「仮面的世界」第24節の図参照)。
純粋言語 神の声
[メタフィジカルな帯域]
┃
┃
┃
<根源的産出2>
┃
[字]━━━━━━╋━━━━━━[声]
[メカニカルな帯域]
┃
<根源的産出1>
[マテリアルな帯域]
原ミメーシス 非感性的類似性
さて、ここでベンヤミンの言語哲学を井筒俊彦のそれへと接続し、議論をさらに深めていきたいと思います。まず、根源的産出・原ミメーシス・非感性的類似性といった話題にかかわる、いわば“下から”のアプローチのもとでの言語をめぐって、『意味の深みへ』(岩波文庫)に収録された「意味分節理論と空海──真言密教の言語哲学的可能性を探る」から、関連する議論を引用します。(今回と次回、井筒前掲論考から抜き書きした箇所は、先日、Web評論誌「コーラ」で公開された「哥とクオリア/ペルソナと哥」第76章で取りあげたものと重複する。)
1.存在はコトバである─経験的次元の問題
井筒はこの論考で、真言密教の言語哲学的思想の中核を、「存在はコトバである」という根源命題の形で提示する(269頁)。そしてこのことを理論的に、すなわち意味分節理論──「我々が普通、第一次的経験所与として受けとめている「現実」は、本当は我々の意識が、言語的意味分節という第二次的操作を通じて創り出したものにすぎない」(277頁)──の観点から解明している。
その到達点は、「我々の言語意識の深層に遊動する「意味」が、様々に異なる形、様々に異なる度合において、存在喚起的エネルギーとして働いている」(288頁)領域、つまり「言語アラヤ識」である。
《…表層的シニフィエの底辺部には、広大な深層的シニフィエの領域が伏在している。そればかりではない。言語意識の深層には、まだ一定のシニフィアンと結びついていない不定形の、意味可能体の如きものが、星雲のように漂っているのだ。まだ明確な意味をもっていない、形成途次の、不断に形を変えながら自分の結びつくべきシニフィアンを見出そうとして、いわば八方に触手を伸ばしている潜在的な意味可能体。まさに唯識の深層意識論が説く「種子[しゅうじ]」、意味の種[たね]だ。既に一定のシニフィアンを得て、表層意識では立派に日常的言語の一単位として活躍しているものと、いま言ったような形成途次の流動的意味可能体と、無数の「意味」が深層意識の底に貯えられている。》(『意味の深みへ』286-287頁)
井筒は「深層的意味エネルギー」の問題に関連して、「シニフィアンとシニフィエとの間に、時として著しい形で看取される不均衡性」に言及し、「本論のこの個所で、いま問題になるのは、…シニフィエの側に起こる異常事態、すなわち、人がよく、コトバの意味的側面に感知する底知れぬ深淵のごときもの[例:ヌミノーゼ]のことである」と述べている。
2.存在はコトバである─異次元のコトバのレベル
シニフィエの側に起こることはシニフィアンの側にも起こる。かくして、議論は日常言語のレベル、すなわち経験的次元を超えていく。
《本稿の主要テーマにとって、より重要なことがある。それは、コトバの存在喚起エネルギーが、通常の経験的次元だけの問題ではなくて、実は、言語意識の表層と深層とをともに含む全体を、さらに超えた異次元のコトバのレベルにまで遡及していく、ということである。少なくとも真言密教や、それに類する他の東洋的言語哲学はそう主張する。》(『意味の深みへ』288頁)
以下、異次元のコトバの「宇宙的スケールの創造力、全宇宙にひろがる存在エネルギーのようなもの」(289頁)をめぐる議論がつづくのだが、ここでは、まず空海の『声字実相義』について述べられた文章を引く。
2-1.真言密教の言語哲学─『声字実相義』
《無限にひろがった宇宙空間、虚空、を貫いて、色もなく音もない風が吹き渡る。天籟。この天の風が、しかし、ひとたび地上の深い森に吹きつけると、木々はたちまちざわめき立ち、いたるところに「声」が起こる。
この太古の森のなかには、幹の太さ百抱えもある大木があり、その幹や枝には形を異にする無数の穴があって、そこに風が当ると、すべての穴がそれぞれ違う音を出す。岩を噛[か]む激流の音、浅瀬のせせらぎ、空にとどろく雷鳴、飛ぶ矢の音、泣きわめく声、怒りの声、悲しみの声、喜びの声。穴の大きさと形によって、発する音は様々だが、それらすべての音が、みな、それ自体ではまったく音のない天の風によって呼び起こされたものである、という。
『荘子』全篇のなかでも、その文学性の高さにおいて屈指の一節、これを読んで、空海の著作中のいくつかの個所を憶い出すのは、私だけではないだろう。》(『意味の深みへ』290頁)
(仮面もしくは仮面的なものをめぐる私の「理論」によると、ここに描かれた無数の穴を持ち、声(地籟?)を発するものは仮面の原初形態もしくは原器的なものなのだが、それはここでは措くことにして)、井筒はここで『声字実相義』の「内外の風気、わずかに発すれば、必ず響くを名づけて声というなり」を挙げ、つづけて「五大にみな響あり、十界に言語を具す」を引いている。
《地・水・火・風・空の五大、五つの根源的存在構成要素は、普通は純粋に物質世界を作りなす物質的原資と考えられているのであるが、それが、実は、それぞれ独自の響を発し、声を出しているのだ、という。すなわち、空海によれば、すべてが大日如来のコトバなのであって、仏の世界から地獄のどん底まで、十界、あらゆる存在世界はコトバを語っている、ということになる。》(『意味の深みへ』290-291頁)