韻律的世界【21】
【21】メトリカル・ライン─身分け・気分け・言分け(その3)
「身分け・気分け・言分け」の概念にそれぞれ紐づけられた三つのメトリカル・ライン(ML①~③)は、また、リズムの三つ(ないし四つ)の層の区分に対応しています。というか、私は、そのような多層性においてリズムを捉えたいと考えています。
リズム⓪ < ML① ≦ リズム① < ML② ≦ リズム② < ML③ ≦ リズム③
【身分け】 【気分け】 【言分け】
ここで機械的に命名した「リズム①~③」の実質について、あくまでひとつの近似的イメージとして、萩原朔太郎、時枝誠記、吉本隆明の議論を援用します。(リズム⓪についてはモアレ篇において、「字・形=モアレ」と「声・音=ライム」に通底する根源現象として考察したい。)
1.リズム③は以心伝心である
《私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言い現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。》(萩原朔太郎『月に吠える』序)
2.リズム②の本質は言語に於ける場面である
《私はリズムの本質を言語に於ける‘場面’であると考えた。しかも私はリズムを言語に於ける最も源本的な場面であると考えたのである。源本的とは、言語はこのリズム的場面に於いての実現を外にして実現すべき場所を見出すことが出来ないということである。宛もそれは音楽に於ける音階、絵画に於ける構図の如きものである。かく考えて来る時、音声の表出があって、そこにリズムが成立するのでなく、リズム的場面があって、音声が表出されるということになる。音声の連鎖は、必然的にリズムによって制約されて成立するのである。》(時枝誠記『国語学概論(上)』(岩波文庫)180-181頁)
──「場面」をめぐる時枝誠記の記述。
《私は言語の存在条件として、一 主体(話者)、二 場面(聴手及びその他を含めて)、三 素材の三者を挙げることが出来ると思う。この三者が存在条件であるということは、言語は、誰(主体)かが、誰(場面)かに、何物(素材)かについて語ることによって成立するものであることを意味する。》(『国語学概論(上)』(岩波文庫)57頁)
《…それ[場面]は場所の概念と相通ずるものがあるが、場所の概念が単に空間的位置的なものであるのに対して、場面は場所を充す処の内容をも含めるものである。この様にして、場面は又場所を満たす事物情景と相通ずるものであるが、場面は、同時に、これら事物情景に志向する主体の態度、気分、感情をも含むものである。(略)故に場面は純客体的世界でもなく、又純主体的な志向作用でもなく、いわば主客の融合した世界である。かくして我々は、常に何等かの場面に於いて生きているということが出来るのである。》(『国語学概論(上)』(岩波文庫)60-61頁)
3.リズム①は指示表出以前/自己表出以前の指示表出/自己表出をはらんでいる
《この[時枝誠記の]韻律観は、とても興味深いが、わたしたちを満足させない。(略)
わたしたちは、原始人が祭式のあいだに、手拍子をうち、打楽器を鳴らし、叫び声の拍子をうつ場面を、音声反射が言語化する途中にかんがえてみた。こういう音声反応が有節化されたところで、自己表出の方向に抽出された共通性をかんがえれば【音韻】となるだろうが、このばあい有節音声が現実的対象への指示性の方向に抽出された共通性をかんがえれば言語の【韻律】の概念をみちびけるような気がする。だから言語の【音韻】はそのなかに自己表出以前の自己表出をはらんでいるように、言語の【韻律】は、指示表出以前の指示表出をはらんでいる。
対象とじかに指示関係をもたなくなって、はじめて有節音声は言語となった。そのためわたしたちが現在かんがえるかぎりの韻律は、言語の意味とかかわりをもたない。それなのに詩歌のように、指示機能がそれによってつよめられるのはそのためなのだ。リズムは言語の意味とじかにかかわりをもたないのに、指示が抽出された共通性だとかんがえられるのは、言語が基底のほうに非言語時代の感覚的母斑をもっているからなのだ。これは等時的な拍音である日本語では音数律としてあらわれている。》(吉本隆明『定本 言語にとって美とはなにかⅠ』(角川ソフィア文庫)59-60頁、【 】は原文ゴシック)
──私は吉本隆明がここで「音韻」と呼んでいるものを「音の韻(ライム)」と、「韻律」を「形の韻(モアレ)」と捉えている。