「私」がいっぱい(パート1.5)【20】
【20】補遺、独在的存在者の場所・再考
前回引用した文章の中で、森岡氏は、「森岡の言う独在的貫通としての独在的存在者の概念は、永井の言う〈私〉の概念とは異なるものである。ただし両者とも独在性を指し示す概念であることに間違いない」と書いていました。これを図で表すとこうなります。
〈私〉 → 独在性 ← 独在的存在者 (← 二人称的確定指示者)
ここで気になるのが、(第13・14回で話題にした)「リアリティ」(実在性)と「アクチュアリティ」(現実性)の区別の問題です。上の図に書き込んだ3つ(ないし4つ)の項はいずれの次元に属するものなのか、ということです。異なる次元に属する項を同一線(ないし平面)上に並置するわけにはいかないからです。
このことを私の“感覚”に照らして整理したのが、次の図です。
【現実性】 独在性
/ \
〈私〉 独在的存在者
↑
【実在性】 …《私》《私》… ↑
…「私」「私」… (二人称的確定指示者)
「独在性」を「アクチュアリティ」のレベルに位置づけるのは、やや微妙です。〈私〉や「独在的存在者」が持つ特性や本質あるいは概念と見るなら、それは明らかに「リアリティ」の範疇に属するからです。ここでは、「独在性」≒「純粋なアクチュアリティ」(無内包の現実性=〈 〉)と捉えておきます。
これに対して、《私》や「私」や「二人称的確定指示者」が「リアリティ」のレベルに属することは見易いと思います。というか、ここではそのようなものとして位置づけています。
(〈私〉が形而上学的・存在論的次元に棲息するとすれば、《私》は概念的・論理的・言語哲学的次元に棲息する。ここで言う「リアリティ」(実在性)のレベルは、語義通りの「物」や「現象」だけでなく想像・虚構の世界や概念的・論理的・言語哲学的事象も含めて考えられるものなので、《私》は明らかにこれに属する。)
問題は、〈私〉や「独在的存在者」をどこに位置づけるかです。私の“直観”では、〈私〉は「アクチュアリティ」を本籍としつつ現住所は「リアリティ」にあり、「独在的存在者」は逆に「リアリティ」を本籍としつつ現住所を「アクチュアリティ」に持つ、となります。
精確に言い直すと、まず〈私〉は、本来「アクチュアリティ」のレベルに属するものですが、それを言語を使って(概念として)語ると《私》(「私」=人物○○にとっての〈私〉)に、すなわち「リアリティ」のレベルの事象になります。〈私〉が孕むそのような両属性を、永井氏は「物自体のお零れ」と表現しています[*]。先の図に即して言えば、〈私〉とは、「物自体」=「純粋なアクチュアリティ」(無内包の現実性=〈 〉)≒「独在性」のお零れとして現象界(リアリティの次元)の中に生き残ったものである、ということです。
次に「独在的存在者」とは、「リアリティ」の次元に属する「二人称的確定指示者」の指差し(貫通)によって垂直方向に、つまり「アクチュアリティ」の次元に向かって立ち上げられたもの、となるでしょうか。
このあたりのところは、永井的(もしくは永井-入不二的)な構図の中に、強引に“森岡の独在論”を埋め込もうとしていて無理がある。森岡氏自身の、とりわけ「貫通型独在論」の「貫通」の概念をめぐる議論に即して掘り下げていく必要があります。(「ペルソナ」の概念についても同様。先の図のどこにこれを位置づければよいか、独在的存在者との関係如何、等々。)
[*]『存在と時間 哲学探究1』第5章。
《感性の形式(つまり時間空間)や悟性の形式(つまりカテゴリー)の適用を経ていないため、まだ現象を構成していない、つまり実在していないが、その素になっているものを「物自体」と呼ぶとすれば、〈私〉や〈今〉は物自体である。とはいえしかし、ほんとうに物自体だとすれば、〈私〉だとか〈今〉だとか、何らかの内容的規定を示唆する呼び名で呼べるはずがない。だからたぶんそれらは、このような超越論的な(=実在を構成する)形式が適用された後に、そのような形式をすり抜けて生き残った(そのような形式によって変様させられながらも現象界の中に生き残った)、物自体のお零れのようなものなのであろう。》(77頁)