文字的世界【10】
【10】フィギュールとしての洞窟壁画・続
旧石器的な洞窟の宗教における精霊(スピリット)たち、すなわち第一群(無から無へ)の唯物論的イメージ群が、組織的農業・家畜化や安定した交易の開始、都市原型や王の出現をもたらした「新石器革命」を経て没落し、やがてイメージの第二群(無から有へ)や第三群(有から有へ:メタモルフォーシス)にもとづいて造形された神々による太陽や月のもとでの宗教へと変貌していった。この転換の過程を、中沢新一氏は『狩猟と編み籠』で次のように叙述しています。
「新石器世界は、いったんこの世のものとして出現した力や富を、いままでの世界のようにはかなく無の世界に手渡してしまうことを、潔しとはしなくなりました。力を人間の身体に体現している王というものがあらわれ、その者が生きている間は王の権力はその身体の内にとどまり続け、その者が亡くなったり弱くなったりすると、王権はそこを離れて、新しい王の身体の内に宿るようなやりかたで、この世で持続可能になる政治権力をつくるシステムが、王権として確立するようになりましたし、自然が生んだかヒトの労働が生んだかは別として、ひとたびこの世の富となってあらわれた価値は、貨幣や文字の中に保存されて、いつまでも現実世界にとどまり続け、交換をつうじてほかの人々の手を渡っていくようになりました。」(48-49頁)
ひとたびこの世にあらわれた価値、すなわち「貨幣」によって保存・交換される経済的な(呪物もしくは商品が身に纏った)富と、「文字」を介して表現・反復(模倣)される詩的(もしくは喩的)な言語的意味。この二つの、“増殖”を本質とする価値(富、意味)の問題にかかわる先史時代の経済学と詩学。(あと一つ増殖するものとして、イエス・キリストの教えに通じる「愛」の問題を挙げることができると思う。ここで『愛と経済のロゴス』を参照したいところだが自粛する。)
これらのうち、中沢氏が主題的に取り上げているのは前者、貨幣の問題です(第三章「イメージの富と悪」)。そこでは、原初の貨幣(原貨幣)すなわち「贈与にとっての貨幣」の表面に打ち出された仮面が、「有」と「無」が転換するインターフェイス上で働くイメージ第二群に属するものであること、イメージ第三群としての貨幣の運動法則が「……→G→W→G→W→G→W→G→W→……」の貨幣(G)と商品(W)のメタモルフォーシスであること、等々の話題が展開されています。
これら議論を参照しながら、私の関心事である「文字」、精確には〈文字〉と表記すべきものについて自分なりの考えをめぐらせてみます。
まず、〈文字〉とは、超越的な「無」の領域に根ざした(無の領域からの“ギフト”として到来した)イメージ第一群の唯物論的な動態を垂直方向に横断し、「有」の領域との境界線上にイコンとして、無を有に転換する力それ自体として自らを可視化(記号化)し、原初的な「意味」をその身に纏った“フィギュール”である。
生まれたばかりの〈文字〉は、自らを無限に変態・変身させる水平方向の運動(記号連鎖もしくはイメージのモンタージュ)によって有の領域にとどまり、その透明で質料零の重ね合わせ(“パランプセスト”)を通じて物語的・神話的な幻想界を造形する。
この第三群のイメージの世界を垂直方向に横断(エクソダス)することで獲得されるのが、「ヤハウェ」という、イメージを禁ずる超越神の〈名〉であり、(イメージ第一群がもつそれとは異なる抽象力を、すなわち概念形成力と象徴力をもった)《文字》であった。そして、そのような天上世界からの転落、堕落によって、物質的な「声」と「文字」からなる地上世界(言語的世界)が生まれる。
このような「モーセのプログラム」とは逆の方向へ(上方ではなく下方へ)向かうオルタナティブとして、中沢氏はブッダの道、つまりホモサピエンスの「心」の本体(流動的知性のしめす無限の働き)を知ることによるエクソダス(覚醒)を挙げています。
「私たちの心を縛っているイメージ第三群の働きから自由になっていくために、それが幻影としてつくられたものであることを知るのが第一歩です。そこから進んで、世界のものごとに同一性や個体性を生みだしていくイメージ第二群の作用を解体するための、「中道を歩む」実践を積み重ねなければなりません。そして、そこから身体を使ってイメージ第一群の深い層に踏み込んでいく実践を通して、流動的知性に直接触れていくのです。」(70頁)
以上を踏まえた、洞窟壁画の三つのイメージ群をめぐるトポロジカルな位置関係を図示します。[*]
(図には書き込めなかったが、垂直方向の力の横断と平行してこれとは逆に下方へ向かって展開する二つの運動がある。その一つはメタフィジカルな層を垂直に貫いてくだされる啓示、いま一つはマテリアルな層を突き破り「絶対無」とでも言うべき領域へ踏み込んでいく実践=修行。)
< 名 >
==[メタフィジカルな層]==
↑
↑
─── →○→○→○→ ───【第三群】PALIMPSEST
<メタモルフォーシス>
↑
《有》 ↑
↑
<文 字>
━━━━━━━◎━━━━━━━【第二群】FIGURE
↑
↑
《無》 ↑
↑
↑
………[マテリアルな層]………【第一群】GIFT
[*]本文で取りあげられなかった話題が二つ。
その一つは、本論考第一節の註で取りあげた永井均氏の文章に書かれていたこと──〈私〉の持続(自己同一性)や記憶現象の成立において避けることができない「独在性の形式的・概念的理解」という仕組み・構造が「文字化」(客観化・外在化)によってあからさまにされる、云々──と、イメージ第二群としての〈文字〉をめぐる中沢氏の議論とを接続することができるのではないかということ。
いま一つは、中沢氏によって拡張された旧石器以降の洞窟壁画のイメージの分類論が柄谷行人氏の交換様式論(『力と交換様式』他)とパラレルな関係を結んでいるのではないかということ。たとえば次のように。
<イメージ> <交換様式>
第一類型 A 互酬(贈与と返礼)
第二類型 B 服従と保護(略取と再分配)
第三類型 C 商品交換(貨幣と商品)
(第一類型) D Aの高次元での回復