「私」がいっぱい(パート1.5)【11】
【11】ピン止めされる〈私〉
第3章第2節で森岡氏は、「翔太が〈私〉である」と措定することが不可能であることを「別の角度」から説明しています(141-144頁)。
「〈私〉は♯♯である」や「♯♯が〈私〉である」というときの「♯♯」を、「この文章をいま読んでいる読者」、つまり「あなた自身」に置き換えて考えてみよ。
「〈私〉は♯♯ではない」とはどういう状態であるかを、〈私〉は、〈私〉であり続けながら想像することができるはずだ。というのも、「〈私〉は♯♯である」というときの〈私〉は「現実世界にピン止めされた唯一の〈私〉」なのであって、それが現実に「♯♯」であろうと反事実仮想として「♭♭」であろろうと、〈私〉のピン止めはいっさいはずれておらず、〈私〉の唯一性は微動だにしないからである。
しかし、「♯♯が〈私〉ではない」とはどういう状態であるかを、「♯♯」が「♯♯」であり続けながら想像することは不可能であるし、できてはならない。なぜなら、「♯♯が〈私〉ではない」という想像は、〈私〉(ここから世界が開けている唯一の原点)からなされるほかはなく、その内容も〈私〉によって決定的に侵食されてしまうからである。
《「ここから世界が開けている‘唯一の’原点」は、〈私〉によるあらゆる想像を浸食し、汚染し、その原点の存在を否定するような想像までをも貪欲に浸食し、汚染し、みずからの支配下に置いてしまうのである。これこそが独在性の意味であろう。独在性は貫通していくのである。》(142頁)
これに対して、永井氏は次のように応答します(第4章第3節)。
〈私〉そのものが剥き出しのまま世界に「ピン止め」されうるという議論は、いわば注文通りに典型的なカント的「誤謬推論」ではないだろうか。(239-240頁)
森岡が言うように、「〈私〉は♯♯ではない」という状態を〈私〉であり続けながら想像することができたなら、それはそのまま「♯♯が〈私〉ではない」状態を想像したということではないのか。「♯♯が〈私〉ではない」という想像は、〈私〉からなされるほかはなくとも、想像である以上、その内容が〈私〉によって決定的に浸食されてしまうことはありえない。もしかりに想像内容が現実の事実によって浸食されてしまうならば、それはたんなる想像力の力不足という心理的事実の問題であって、ここで論じている哲学的・形而上学的問題とは関係がない。(245-246頁)
──ここでもまだ、私は永井氏の議論に説得されています。カント以前どころか、森岡の議論はそもそも哲学の議論ではない、と永井氏は厳しく指弾し、哲学の素人・門外漢の私でさえ、そう言われればそうなのかもしれないと思う。
そして同時に、森岡氏はなぜこの“苦しい闘い”を続けようとするのか、がとても気になるのです。「そうだ、その通りだ、私は何も哲学や形而上学の問題(だけ)を論じたいわけではない、独在性、もしくは独在的存在者という概念を使って、私が考えたい問題、私が取り組みたい問題(二人称的共同性をめぐる?)に挑んでいく、そのための(そのためだけの)哲学的基礎固めをしたいのだ」、とそう言ってしまえば“楽”になるだろうに、なぜ森岡氏は、永井哲学の土俵の上で頑張り続けるのか(あるいは、永井哲学を森岡哲学の陣営に引き入れようとするのか)。
以上の議論のうちにうまく「ピン止め」することはできませんが、“森岡の独在論”にとって大切な(“永井の独在論”にとっては土俵外の)話題を一つ抜き書きしておきます。
森岡氏は、「世界に〈私〉という唯一の世界の開けの原点が複数存在する」と主張することは可能なのか、そもそもそれは、つまり「唯一のものが複数ある」という語義矛盾をきたす事態とは「いったどういうリアリティを指しているのだろうか」と問いを立て、自ら次のように答えています。
《転んで泣いている子どもに声をかけて抱き起すとき、その子どもに他の〈私〉が存在するという語義矛盾そのものを、〈私〉はリアルに生きてしまっている。もしそのように考えられるとすれば、他の〈私〉は永井の言うように「かいま見られる」ものではなく、その子どもの場所に‘語義矛盾そのものとしてありありと露出しているものである’と言えるはずである。そしてその語義矛盾の露出こそが、私たちが共同で生きていくうえでの根拠なき確信の構造を形作っているはずである。》(134頁)
ここで言われる〈私〉とは《私》(比類ない私、かけがえのない私、「~にとって」の〈私〉、概念としての〈私〉)のことにほかならないでしょう。
そして、この意味での〈私〉すなわち《私》の成立の論理的な仕組みや、〈私〉との関係性という「独在性に内在する矛盾」を曖昧にしたまま、(転んで泣いている子どもに声をかけて抱き起す、のような)情緒的な事柄を混入させて議論すべきでない、というのが永井氏の批判です(235頁)。
この(極めてまっとうと思われる)批判をくぐりぬけ、精錬されたかたちで打ち出される“森岡の独在論”とは、いったいどのようなものになるのか(おそらくそれは、「感性的独在論」とか「生命哲学的独在論」と名づけていいだろう、「論理的独在論」や「言語哲学的独在論」と呼ぶべき“永井の独在論”との対比において)。──これが、「パート1.5」における私の、唯一ではないけれども最大の論点です。