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「私」がいっぱい(パート1.5)【19】

【19】貫通型独在性をめぐる後日譚

 第5章「貫通によって開かれる独在性──あとがきに代えて」。
 『〈私〉をめぐる対決』を、永井哲学への“入門書”として読むのではなく、森岡哲学の「悪戦苦闘のドッキュメント」として見るならば、森岡氏によって書かれたこの最終章は、本書の白眉にあたるでしょう。
 その冒頭の一文が「永井からのコメント[本書第4章]を読んで一歩前進できた部分があったので、その骨子を記しておきたい。」(282頁)で、以下がその「一歩前進」の内容。この引用箇所にいたる記述の中で森岡氏は、かの「唯一最大の論点」にかかわる「人物○○が〈私〉である」は無意味だという主張を、「人物○○が独在的存在者である」という言明は無意味だ、に改めています。

《したがって、森岡の言う独在的貫通としての独在的存在者の概念は、永井の言う〈私〉の概念とは異なるものである。ただし両者とも独在性を指し示す概念であることに間違いない。森岡の側から見た場合、この発見が本書最大の収穫であり、永井との対話がなければ気づくことのできなかったものである。これが冒頭に述べた一歩前進の内容である。この両者の差異をクリアーにするためには、貫通型独在性における人称的世界の構造をきちんと解明する必要がある。これについては、なるべく早い段階で包括的に言語化したいと考えている。そしてそれを森岡のメインの仕事である誕生肯定の哲学へと結びつけていきたい。》(299頁)

 森岡氏は、本書が上梓された直後のツイッターに次のように書いています。「独在性についての永井と森岡の深刻なズレのように見えるものの隙間から、真性の哲学の問いが浮上する姿を目撃することができます。類例のない哲学書。普通の対談を予想してたら脳が破裂します。」(2022年1月21日)
 ここで言われる「真性の哲学の問い」──それが、永井均の〈私〉の概念と森岡正博の「独在的貫通としての独在的存在者」の概念、そして両者が共に指し示す「独在性」をめぐるものであることは当然のこととして──が向かう先は、何よりも、いまだ哲学的概念として精錬途上である(提唱されたばかりの)「貫通型独在性」であることは言うまでもないでしょう。
 永井氏も同じ時期にツイートしていました。「森岡説に反対するといったことは全くしていないと言ったが、第5章に新しく登場する「貫通型」についても(貫通性の構成はいずれにせよ不可欠なので)その理路が整い論脈が飛躍なく辿れるなら必ず賛同できるはず。この種の議論においてはそれを主張する理路と独立の主張(意見)はそもそも存在しないので。」(2022年1月14日)
「とはいえ、森岡さんはそうは(=この種の議論においてはそれを主張する理路と独立の主張(意見)はそもそも存在しないとは)思っていない可能性もあり、もしそうだとすればそこが「対決」になっている可能性がある。かつて異種格闘技をお互い自分のルールに従ってやったらどうなるか考えたことがあったが。
 それを主張する理路と独立の主張(意見)というものも存在するとも考えられる。それはとても根源的な対立を形成する、と。例えば①すべては〈私〉の存在から始まる(開闢する)という考えと②無いほうが普通であるはずの〈私〉が何故か在ることの驚きとの対立。この二つの対立は「対決」はさせられない。」(2022年1月15日)
「それでも、この二つの見地の相互関係をさらに研究することはまだまだどこまでもできる。すべきことはそれであり、どちらかの立場に立つ(などというつまらないこと)ではない。」(2022年1月16日)
 ──呟きはまだまだ続くだろうし、後日譚はキリがない。

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