【小説】『玉葉物語』前日譚「竹の園生の御栄え」第四話「宮輩の御悩み」
※これはフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
第四話「宮輩の御悩み」
(一)生孫王
宣文十八年の真夏のある日のことである。明治の大御代の東京奠都以来、皇室の方々のご帰還を心からお待ち申し上げていた京都の人々は、記録的な猛暑日になるだろうという天気予報にもかかわらず京都駅前に集い、日の丸の旗を手に持って、今か今かとその時を待ち構えていた。
四年ほど前の京都行幸時よりも大々的な歓迎ぶりだが、彼らがご帰洛をお待ち申し上げるお相手は天皇陛下ではなかった。
「万歳、万歳、万歳!」
皇甥のお一人、西院宮殿下とそのご家族が駅舎内からお姿をお見せになるや、集まった人々は随喜の涙を流しながら万歳を三唱し始めた。この日は、西院宮殿下を筆頭とする八つの宮家、数十名の皇族方が京都駅前にお見えになった。皇位継承資格をお持ちの方々は一度に移動することがおできにならないので、すべてが済むまでにはかなりの時間が掛かったけれども、市民たちの多くはまるでパレードを楽しむがごとく、最後のお一人まで満面の笑みで見届けた。
永寧の聖代を契機に、赤坂御用地はすっかり手狭になってしまった。ゆえに東京付近に新しい御用地がいくつも造営されてきたのだが、それでもじきに足りなくなってしまったので、一部の皇族方におかせられては、地方へとお住まいを移されることになったのだった。
「私の宮号の由来となった『西院』の所在地であり、昔から父祖の地として偲んでもきたこの街で新たな人生を歩んでいけることを、衷心より喜ばしく思います」
西院宮殿下のこのお言葉は翌日、畿内の各紙に大きく取り上げられた。かねて皇族にお戻りいただきたいと「双京構想」などの形で要望してきた京都の人々の喜びようといったら、もちろん並大抵のものではなかった。
当時の京都市長曰く、
「歴史を紐解けば、わが国は幾度も大災害に見舞われてきました。それにもかかわらず東京に皇室の方々が集中的にお住まいでいらっしゃったことは、首都直下型地震や富士山噴火などの可能性を考慮する時、国家を存続させるうえで重大なリスクがあるものでした。この懸念を解消するために私たちの街が歴史的使命を再び担えることを、心から嬉しく思います。今日という日を喜ばない京都市民は誰一人としていないでしょう」
事実、かつての宮家や公家たちの屋敷地であり、国民公園として長く市民に開放されてきた京都御苑は、この数年前から新たな殿邸の造営地とすべく立ち入りが禁じられるようになってしまっていたけれども、そのことに不満を抱く者はほとんどいなかったのである。
同じように奈良県でも、喜びの声が各地から上がった。空き地が多いこの県では、神武天皇が即位されたと伝わる橿原市などの朝家の故地に、比較的規模の大きな御用地がいくつも造営されたのだった。
だが、全国津々浦々を見れば、京都や奈良のように雲の上の人がご増加になったことを喜ぶ人間ばかりではなかった。朝家の危機はもはや過ぎ去ったとみなが確信を抱くようになると、皇子が新たにご降誕になろうとも、世の人々の多くはそれほど関心を示さなくなった。それどころか、御代替わりを幾度も重ねるうちに竹の園がますますお栄えになると、往年の皇室ファンの中にさえも、
「過ぎたるは猶及ばざるが如し、という言葉もあるというのに」
などと眉を顰める者がいないこともないというありさまになってしまったのだった。
ご就任をお願い申し上げるべき名誉総裁職などにも数に限りというものがあるし、そもそも諸団体のほうでもできることならば皇室の中でもとりわけ中心的なお方をこそ奉戴したいと当然に思っている。皇族のお勤め先としてふさわしいとされる社団法人などの公的機関も、それほど数が多くあるわけではない。手持ち無沙汰な傍系皇族の中には、和歌をお詠みになったり随筆をお書きになったり、学問の道に進まれたりと、文化方面で大いなるご活躍をなさるお方もおわしたものの、当たり前のことながらすべての金枝玉葉が何かしらの才能に恵まれていらっしゃるわけでもない。
であるからして、皇族があまりにもお増えになりすぎると、ご公務らしいことをほとんど何もなさらずに明けても暮れても殿邸に籠っていらっしゃるというお方が、金枝花萼の御身にはどうしても多くなってしまわれるのだが、そうなると税を納めている民草の中からは面白くないと感じる者がやはり出てくるものである。中には、御用地のすぐお側にまでわざわざ足を運んで、
「やあい、生孫王!」
などと叫ぶ者どもさえあった。平安の頃の話であるが、かつての帝のお血筋でいらっしゃるにもかかわらず声望や地位が十分にはお備わりでない諸王は、藤原氏や一世の源氏といった位がお高い貴族たちから、嘲り混じりにそのように呼ばれておいでだったのである。
幸いにして「生孫王」などと罵る声は殿邸にまで届くものではなかったけれども、もちろん世間でそのような悪評があることを宮内庁はよく認識していたし、金枝玉葉の方々も、宮内庁を介して多かれ少なかれご存じではいらっしゃった。
けれども、今となっては遠い昔の帝とならせられた永寧天皇が、
「竹の園生にある者はみな、『これだけの皇族がいれば安泰であろう』などと油断することなく、朝家が絶えることのないように努めるべきだ。たとえ皇族が増えすぎてしまったとしても、その時には『皇籍離脱をさせて人数を調整してくれ』と政府のほうから進言してくるであろうから、わざわざ産むのを控えようとしてはいけない」
とご遺命になっていたので、それを金科玉条として墨守することこそが自分にできるただ一つの公務なのだと固くお信じになって、どのお方も暮らし向きを改めようとはなさらなかった。
皇族費が増えたといっても、国の予算に占める皇室費の比率はなおも雀の涙ほどでしかなかったので、竹の園生の御栄えようを快く思わない民草は、けっして多数派というわけでもなかった。だから、金枝玉葉の方々におかせられては、いくらかの悪評があろうとも、宮仕えの人々が拝察するほどにはお心を悩ましてはいらっしゃらなかった。
しかしながら、皇族の数が多くおなりになれば、あまり素行の宜しくないお方も出てきてしまわれるのが自然の成り行きである。実際、平安京が造営されてからまだ百年ほども経っていない貞観の頃には、時服の支給対象として認められた十三歳以上の無位の諸王だけでも五、六百人もおいでになったそうだが、それほどまでに大勢の王孫がいらっしゃる状況では、俗世で罪を得てしまわれるお方すら少なからずお現われになった。
『扶桑略記』によると、村上天皇の御代である応和元年五月十日の夜に、前武蔵権守である源満仲の殿邸に盗賊が押し入るという事件があり、調べが進むと、検非違使が夜ふけにもかかわらず参内して奏聞をするほどの大事になった。それというのも賊の頭だったのが、時の帝の甥御にあたらせられる親繁王であらせられたからである。
古くから「天暦の治」と称えられた村上帝の治世でさえそのようなお方がおいでになったのならば、後の濁世ではなおさらであろう。永寧の聖天子のお血を引かれる方々の中には、かつての親繁王ほどにはおひどくないにせよ、世の人々に「生孫王」などと呼ばれたとて仕方がないようなお方も少なからずいらっしゃった。それでも朝家をも揺るがしてしまわれるほどのお方はなかなかお現れにならなかったけれども、それも応中の御代までのことなのだった。
(二)某若宮御乱行
一
『源氏物語』の皇子「光る君」は架空の人であるけれども、そのモデルの一人ともされる「玉光宮」こと敦慶親王のように、昔から朝家には確かに美男が大勢おいでになった。特に名高いのは在原業平朝臣であらせられよう。このお方は貴族として知られておいでだが、人皇第五十一代・平城天皇の第一皇子・阿保親王が五男としてお生まれになってから間もなく臣籍に降りられたのであり、元は紛れもなく金枝玉葉の御身なのだった。
愛知県知立市にある八橋山無量寿寺の境内に、小野篁卿の娘とされる「杜若姫」の供養塔がある。伝説によればこの姫君は、東下りをなさる業平卿を追ってはるばる都より来られたものの、八橋に着かれた時にはすでにご出立になっていたので、悲嘆のあまり付近の淵――今の逢妻川――に入水なさったということである。
また、愛知県東海市の富田には、かつて領主である藤原道武が建てさせたとされる「あやめ」なる女官の供養塔がある。業平卿が椎の大木に登って、追いかけてくる彼女をやり過ごそうとなさったところ、彼女はその木の下にあった井戸の水面に映った業平卿を見つけて狂喜し、井戸の中に飛び込んで亡くなってしまったと伝えられる。
さすがに業平卿ほどの逸話をお持ちのお方はなかなかいらっしゃらないけれども、昭和天皇も特に皇太子であらせられた頃には、美男として世の若い娘たちの間でたいそうな人気がおありだった。大正十年十月十二日の『読売新聞』によれば、ある展覧会にその名刺が展示されるや、多くの女学生がそれ見たさに詰め掛けたという。当時の娘たちの中には、摂政宮のご送迎の際に、やたらと赤くなって恥ずかしがる者もいたそうだ。
「どことなく摂政宮殿下の面影があるこの人のお嫁さんになりたい」
そんなようなことを言って、親たちの反対も押し切って学校をやめてしまった娘もいたらしい。この時代には、女学生たちが摂政宮のブロマイドをあたかも映画男優のそれのごとく買い漁り、教育界で問題になるという事態まで起きていた。
このように朝家の方々は、光り輝くかのようなその美貌ゆえに、昔から大勢の女どもを狂わせてこられたものである。
さて、応中の大御代の半ば頃、花町宮のご一家に、梅麿王と申し上げる若宮殿下がいらっしゃった。竹の園生のならわしとして御学校の初等科にお通いになっていたこの殿下におかせられては、宣文天皇から数えて四世の孫にあたらせられるという、金枝玉葉の中でも本来ならばそれほどお目立ちにはならないはずのお立場でいらっしゃった。
しかしながら、ただでさえ「今業平」や「平維盛の再来」などと称えられ給うほどに見目麗しさが際立っていらっしゃった美麿王殿下の和子としてお生まれになったこの殿下におかせられては、先祖返りとでも申し上げるべきだろうか、その父宮ですらまったく見劣りしてしまうほどの眉目秀麗さでいらっしゃったのである。
この若き王殿下には、生まれついての見目麗しさもさることながら、この歳の頃の童子の間ではとりわけ大事なこととして、運動がとてもよくおできになったので、いつも大勢の娘に取り囲まれておいでだった。高学年にならせられる頃には、上下の学年の娘たちまでもが、放課後になるやいなや、こぞって我先にと殿下のおわす教室に押し寄せて、
「ごきげんよう、殿下」
「本日はどのようなお遊びをなさいますの?」
などと言いながらお席を囲み奉るのが常となっていた。華族制度が廃止されてから数百年の時が流れた今もなお、御学校には由緒正しいお家柄の子女がたいそう多くいらっしゃるけれども、そのようなご令嬢たちでさえもが、この輝かしい王殿下の御前にあっては、
「ちょっと貴女方、いったいいつまで殿下のお側にいらっしゃるおつもりなのよ。早く場所を交代なさい!」
と、お顔を真っ赤にしながら大騒ぎをなさるなど、下々の娘にも劣るひどく浅ましいお姿ばかりをお見せになった。尤も、言い伝えによると平安の古、比叡山の中興の祖として名高い良源が仏事のために参内なさる時に、女官たちはみなこの容姿端麗なる高僧のお顔を拝もうとしてお争いになったそうだ。ご身分がおありの大の大人でさえ本当にそんなご様子であったとすれば、まだ分別もつかない童女がこうであっても仕方がないことではあるのだろう。
初等科にはこの頃、皇太子殿下を筆頭に、梅麿王殿下よりも皇位継承順位がはるかにお高い雲上人が大勢おいでになったが、梅麿王殿下のお慕われようはまことに甚だしく、そんな方々がみな異性との関わりをほとんどお持ちになれないというありさまになってしまったので、
「御学校が次代の皇后を輩出することはできないだろう。たとえ幼い頃の話だったとしても、皇后が夫帝以外の男のことで無我夢中だったなどと報じられるわけにはいかない」
「それが皇太子殿下と出会う前の出来事ならばともかく、彼女たちはすでに殿下を蔑ろにしており、未来の皇后として不適切だ。今後の出会いについて考えるなら、殿下には進学先の変更をご検討いただくべきではないか」
などと、宮内庁のお偉方は頭を悩ませなければならなかった。
二
その梅麿王殿下が中等科に進学なさってから一月が経った頃、殿下と時を同じくして女子中等科へとお進みになったさる旧華族家のご令嬢が、御年わずか十三にして身籠っていらっしゃることが露見した。
世の中には、わが子が密かに赤子を産んでいたことに気が付かなかったという家もあるようだが、何かにつけて厳しい監督をお受けになるのがいまだに当たり前のことでいらっしゃる名家のご令嬢が、しだいにお腹が膨らんでいくのをいつまでも隠し通すことがおできになろうはずもない。ご両親に問い詰められ給うたご令嬢は、もはやこれまでと思し召して、その身にお宿しになっているのが梅麿王殿下の御子であることを、そして、どうしたわけでそういうことになってしまわれたのかを、赤裸々にお打ち明けになった――。
事の起こりは、初等科の卒業式までわずかに数か月を残すばかりになった頃。御学校は初等科までは男女共学だが、中等科からは「男女七歳にして席を同じゅうせず」ということであろう、男と女で学び舎が分けられる。最高学年の童女たちはみな、その時が近づくにつれて、
「ああ、もし叶うならずっとこのままでいたい。進学すれば慕わしい殿下と離れ離れになってしまうだなんて」
と己の運命を嘆いた。この学年の子はみな、ほんのわずかにでも王殿下のお近くのほうにいたいという浅ましい女心からたびたび押しのけあうような争いもした恋敵同士ではあったが、それゆえに互いの悲しみが痛いほどによくわかったので、すべてを水に流して力を合わせることにしたのだという。つまり、彼女たちはある日の放課後、いつものように殿下のお席を囲み奉るや、いったいどこで覚えたのであろうか、
「殿下、今生のお別れをする前に、できることならばほんの一度なりとも『思い出』が欲しゅうございます」
などと言いながら、学び舎の中であるというのに大胆不敵にも一斉に制服のスカートをたくし上げて誘惑し奉ったそうだ。このような時、「鬼大師」とも呼ばれる良源であったならば、
「お礼に私も一つ、得意の百面相をお目にかけましょう」
とでも仰った後、鬼の姿に変化して驚かせ、まんまとお逃げになったのだろうが、それを目の当たりになさった梅麿王殿下におかせられては、やはりそういうお年頃であらせられたがゆえのことであろう、一も二もなくこの甘い誘いに乗ってしまわれたらしい。
竹の園生の方々をお預かりする心構えとして、もちろん教師たちは見守りを欠かさなかったのだが、ことこの殿下に限っては、あまりにも大勢の女子に囲まれていらっしゃるので、真ん中のほうで何をなさっているかを確かめることまでは難しかった。そして誰もが、
「女子と二人きりでいらっしゃるのならともかく、こうも大勢がいては間違いなど起こるはずもないだろう」
と考えて、他の皇族方の見守りに向かうなどしたのだった。また、この頃は瓊枝玉葉をお守りする側衛官も、昔とは違って教室からやや離れた場所にお控え申し上げるのが常であった。そんなわけで、夕毎に続けられたこのご乱行は、ご卒業により終わりを迎えるまでとうとう大人たちには誰にも気付かれることがなかったのである。
件のご令嬢の後も、
「宅の娘が、王殿下の御子を身籠ってしまったようでございます」
などと申し出てきた家庭が相次ぎ、その総数は十三にも及んだが、これはあくまでも申し出てきた数でしかないから、王殿下の御種をその身に宿してしまった娘は、ひょっとするとさらに多かったのかもしれない。生前に邪淫の罪を得た者は、死後二十一日目である三七日に地獄で宋帝王の厳しいお裁きを受けることになってしまうというのに、それを知ってか知らずか、日頃からこの殿下を囲み奉っていた同級生でその身を捧げない者はほとんどいなかったほどであるから、まさに末法の世の乱れもここに極まったというほかない。
三
「某少年皇族の『後宮』と化した御学校 良家の令嬢が同時に十三人懐妊の衝撃!」
しばらくして、とある週刊誌がそう題する特大スクープ記事を世に出したので、国内のワイドショーは長くその話題ばかりになってしまった。遠く海の外でも面白おかしな話題としてたびたび取り上げられたから、世の人々はこれをひどく恥ずかしく思った。
梅麿王殿下はもちろん未成年でいらっしゃったので、その週刊誌は当初、配慮してお名は記載せずに「中等科にご在籍のとある皇族」としたのだが、これが図らずも事態の悪化を招いてしまった。その当時、中等科には二人の両手両足の指を用いたとて足りないほどの金枝玉葉の御身がお通いになっていたから、
「筆頭宮家である西院宮家の若宮殿下の御ことではあるまいか」
「思うに、かつて稀代のプレイボーイとして世間を大いに賑わせた土御門宮の三男坊ではないだろうか」
「宮家の話とは限定できない書きぶりだから、皇太子か第二皇子ということもありうるだろう。名前を出さないのは、表には名を出せないほど上のほうの皇族だからかもしれない」
などと、何ら恥じ入るところのおありでない方々までもが、物見高い人々から好奇と疑いの目を向けられてしまわれたのである。
以前から金枝玉葉の御身が婚外子をお儲けになってしまうことはしばしばあったものの、内々での話し合いなどにより、醜聞として表に出ることはなかった。しかし、梅麿王殿下の場合はもはや隠し立てのしようがないことだったので、政府は朝家の先例などを参考にしながら制度改革を検討することにした。
そもそも、一般国民の間では婚外子差別を解消しようとしながら、朝家の婚外子は逆に皇位継承から排除したところから誤りだったのかもしれない。歴史を紐解けば、第二次世界大戦に敗れてから間もない昭和二十一(一九四六)年十二月十一日、日本自由党所属の衆議院議員・北浦圭太郎が、第九十一回帝国議会においてこう述べている。
歴史的に庶子を貴種としてすらほとんど認めてこなかったヨーロッパの君家でも、今日では王位継承権はともかく「王子」の称号や「殿下」の敬称くらいは認められるようになっているのである[1]。それを思えば、皇庶子のご即位を長きにわたって認めてきた日本が継承権を認めない道理はどこにもなく、すんなりと認められることになった。しかし、当然のことながらこの制度改正に対しては、
「これからは庶子までもが歳費の支給対象となるのか!」
と腹を立てる人々が多くあった。
歳費の支給対象とならせられるのが梅麿王殿下のお子さま方だけで済めばまだ良かったのだが、婚外子も皇族として認められることになるや、
「今は亡き母が今わの際に言い残したことですが、自分は先代の上総宮さまのご落胤らしいのです。ご調査をお願いします」
などと宮内庁に訴え出る者が相次いで、これも国内外に大きく報じられてしまったから、事態はさらに悪化してしまった。
この「応中の猪熊事件」や「不良皇族事件」、「某若宮御乱行」など、後の世にさまざまな名で呼ばれる騒ぎをきっかけにして、竹の園生が民草から向けられる目は、にわかに厳しいものになってしまったのであった。
兼好法師が書いたとされる『徒然草』の第一段に、
「御門の御位はいともかしこし、竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやんごとなき」
という一節がある。今さら言うまでもないことだが、竹の園生とは皇室や皇族の異称であり、それは前漢の孝文皇帝の皇子で梁に封ぜられたる孝王が王城の東庭を「修竹苑」と命名し、そこに竹を多く植えたという『史記』の故事に由来する。すなわち『徒然草』は、天皇陛下はたいへんに畏れ多く、同じお血を引いておられる傍系皇族でさえも、その末端の方々に至るまで人とは違っていて尊い――と言っているのだ。
一天万乗の聖主に対し奉り、
「何をなさらずともいてくださるだけでありがたい」
という思いを抱くような尊王家であれば、『徒然草』の言うように諸王をもただただ尊ぶばかりであろう。しかし、ゆめゆめ忘れてはならないのが、人心が荒み、神や仏などへの信仰心がほとんど薄れ果ててしまったこの五濁悪世には、至尊の宝位ですらも尊崇すべきものだとは考えない者も少なからずいるということである。
「皇族に対して国家がその保障をして差し上げる経費がずぼらにどんどんふえてくるということでは、皇室に対する国民の尊敬というものにもひびが入る危険が将来あると私は思う」
昭和四十三年に受田新吉がそう発言をするよりはるか昔――おそらくは明治の大御代に帝室制度調査局が設けられてすぐのことであろう、小松宮彰仁親王におかせられては、次のように上奏なさったという。
枝葉があまりにも繁りすぎれば、かえって根や幹まで枯らしてしまいかねない――。小松宮彰仁親王はそう仰って、傍系皇族を臣籍に降らせることができるようにすべきだ、と明治の古にお唱えになったわけであるが、後世の目から見るに、この宮はまことに慧眼であらせられた。
京都は嵐山の「竹林の小径」がああも人々を魅了する美しさなのは、常に人の手が加えられていればこそであって、もしも捨て置かれたならば、たちまちのうちに夥しい数の筍が柴垣で隔てられた遊歩道にまで生えるようになり、やがては荒れ果てた土地になってしまうだろう。そうなれば、幾多の使い道があった昔ならばともかく、今はもはや誰一人として竹に見向きもすまい。仮にその竹林の中に根元がたいそう美しく光り輝るものが一本あり、そこから赤子が産声を何度も上げていたとしても、いつまでも気付かれることはないであろう。
そもそも宗室のご血統をありがたいと思わぬ人々にしてみれば、竹の園生の窮り無き弥栄もそのような竹林とさほど変わるところがないというわけで、諸々のお務めにこの上ないほどご熱心に励んでいらっしゃる主上までをも悪しざまに罵る人々すら、ごくわずかではあるものの現れる始末であった。
(三)宮輩の御悩み
応中十八年の春告鳥が鳴く頃に、皇位継承順位第百十八位にあたらせられる信貴宮殿下におかせられては、重いお病を得られた妃殿下のご快復を神仏に祈願なさるべく、京都と奈良の名だたる寺社の数々をお巡りになっていた。
さて、諸寺社中のとある寺に、煩悩を滅するための修行が足りていなかったのであろう、この殿下をむざと侮る小僧があった。曰く、
「お釈迦さまは古代インドのシャーキヤ国の王子としてお生まれになり、王城を抜け出して悟りを開かれました。殿下は同じように貴人としてお生まれになりながら、今日までいったい何をなさってきたのですか」
竹の園生の御栄えを折々にお祈り申し上げるべき神職の中にさえも、本心ではこれ以上の弥栄を望まないがゆえに、
「皇室はもとより天壌無窮と決まっているのだから、わざわざ弥栄をお祈りする必要はないのではないか」
などと唱える者が少なからずいたご時世だから、それほど不思議な出来事ではないのかもしれなかった。しかし、勅願寺とされたほどの皇室ゆかりの古刹であるにもかかわらずのこの無礼をお見逃しにならなかった信貴宮殿下には、
「永寧大帝が仰せになったように、皇位継承者が絶えないように努めることも皇族の大切な公務である。私のような末端の者にとっては唯一の公務なのだ」
と、滔々とお話しになったそうだ。この頃にはまだ、金枝玉葉には信貴宮殿下と同様のお考えのお方ばかりがおわしたものである。だが、その直後に明るみに出た「御乱行事件」により朝家への怒りが高まると、打って変わって、
「永寧大帝のご遺命に背くことになってしまうが、自分のような者は進んで身分を捨てたほうがよいのではないか」
と思い悩まれるお方が多くおみえになるようになった。
皇室典範は、竹の園生があまりにも御栄えになりすぎてしまった時のために、皇籍離脱を認めている。帝と血縁の遠からざる親王は別にして、枝葉たらせられる王は「その意思に基き、皇室会議の議により」皇籍をお離れになることができるというので、政府からその類いの進言がいまだにないうちに、醍醐宮殿下、桂宮殿下、正親町宮殿下、笠置宮殿下など、かなりの数の諸王がそのお気持ちを進んで示された。
しかしながら、三権の長や宮内庁長官などが名を連ねる皇室会議は、その類のお気持ちを黙殺し奉るのが常だった。それというのも、平成と令和の両聖代において、後伏見天皇の後裔たらせられる旧宮家[3]のご処遇をめぐる議論がまるで牛の歩みのようになかなか進まなかったことに思いを致せば、万が一の際に皇籍復帰を願い奉るのが難しいことがたやすく予想できたからである。
応中二十三年の夏、ある内奏の場でのことである。帝におかせられては、首相にこのようにお問いかけになった。
「どうしても皇籍離脱を認めてやることはできないのか。たとえ一人や二人でも、望みどおりに離脱を許してやれないものか」
時の首相これに対えて曰く、
「わずかな人数だけ認めるというのが最も難しゅうございます。とあるお方の臣籍降下を認めるのでしたら、それより皇位継承順位が低い方々にも臣籍に降りていただかねば、後の世に禍根を残してしまう虞がございますゆえ」
もちろん、竹の園生においでになるのは、ひとたび断られただけで黙ってしまわれるようなお方ばかりではない。皇位継承順位第五十位、帝の再従甥のお一人にあたらせられる生駒若宮殿下などは、訴えを皇室会議に却下され給うた後もなお、
「国民に申し訳ないと思う気持ちも当然ありますが、ご高齢の上皇陛下でさえもがご多忙な日々を送っていらっしゃる中、まだまだ若いというのに食べて寝るばかりの日々を送っていることが、心苦しく思えてなりません。ましてや、そんな私たちのせいで御稜威が衰えてしまっていると聞いては、生きていることすら恥ずかしくてたまりません。化野の露と消えてしまいたいという日毎に募るこの思いを、いったいどうして抑えることができましょうか」
と、お袖をお涙でしとどにお濡らしになりながら、宮内庁長官にご直訴になった。日々の暮らしに張り合いがおありでなく、至尊のお血筋に連なることをほとんど唯一のお心の支えとなさっている諸王殿下には、御稜威のお衰えは何よりも耐えがたいことなのであった。
応中二十年の歌会始の儀で皇族方が披露なさったお歌は、きわめて異例なことに、雲の下に降りたいというお気持ちを色濃く滲ませるものがほとんどであった。
また、生駒若宮殿下の弟宮のお一人、皇位継承順位第五十四位にあたらせられる山辺宮殿下におかせられては、憲政が敷かれて以来、本朝に先例のない大騒動をお引き起こしになり、宮中府中の人々をして吃驚仰天 せしめられた。この殿下には、平素よりお口癖として、
「表舞台で私にできることが何もないのならば、いっそ厭わしいばかりの身分など捨ててどこか山奥の荒れ寺にでも入って、人類の安寧や世界の平和を祈りつつ静かに暮らしたい」
云々と仰せになっていたのだが、ある厳冬の日の朝、衆人の目もあろう中でいったいどのようにして袈裟などをご調達なさったのであろうか、やにわにご法躰となられて、殿邸玄関の近くで雪見をしていた殿邸に仕える人々の前にお出ましになった。そうして、
「今日まであれこれとずいぶん世話になった。これが今生の別れとなろう。どうか皆、私を捜そうとはしてくれるな」
と真白き吐息とともに仰せ出だされるや、懸命な諌止を振り払ってまで出奔せんとなさったので、金枝玉葉の御身なれどもやむを得ないということでついには皇宮警察の者どもの手によって取り押さえられ給うたのであった。
いつの御代からであろうか、十分な数の束帯や十二単が用意できない、たとえ用意できたとしても高御座のお側にはとうてい収まりきらないなどの諸事情から、成年皇族であらせられながら即位礼正殿の儀への参列でさえも叶わないお方が山のように出てしまわれるようになってから久しかったが、御代替わりに際して式典委員会の長を務める歴代の内閣総理大臣は、それほどの状況に立ち至ってもなお方針を改めようとはけっしてしなかった。
応中二十年代後半から三十年代にかけて長く宰相の座にあった佐藤忠彦は、長く朝廷を支えた藤原氏の末裔であることを誇りとする尊皇家として知られていたから、彼が在任している間、諸王殿下は好機とばかりに、自分がどれだけ苦しみながら日々を過ごしているかを詠んでは首相官邸に送りつけるなどの働きかけをたびたびなさった。しかし、そんな佐藤首相でさえも、
「申し訳ござりませぬ、申し訳ござりませぬ」
と、目から大粒の涙を零しながら、赤坂をはじめとする数々の御用地のほうを向いて首を垂れるくらいのことしかできなかった。
「朝家への風当たりが厳しくなってしまっているが、必ずや時間が解決してくれるはずだ。安泰そうに見えた大正の大御代からあれほどの危機に陥った過去を鑑みるに、どんなに安泰そうに見えたとしても、永久に安泰だと言い切れるものなど、この浮世には何一つとしてないのだ。だから、宮様方にはお気の毒ながら、今のご身分のままでいていただかねば――」
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【脚注】
[1]ベルギー王アルベール二世の庶子であるデルフィーヌ・ボエルは、王の子と認定されるや「ベルギー王女」の称号と「殿下」の敬称を得たが、王位継承権は持たない。余談ながら、旧皇室典範では、女性皇族は降嫁とともに皇族の身分を喪失したが、特旨があれば「内親王」や「女王」の称号だけは保持することができた。
[2]戦後に皇籍離脱した東久邇宮稔彦王は、大正末期から昭和初期にかけ枢密院議長を務めた倉富勇三郎が書き残した『倉富勇三郎日記』によると、昭和二年の時点で次のように言って臣籍降下を望んでいたという。「……結婚関係なき現在の皇族は、皇室とは親族とも云ひ難く、此の如きことにて、皇族と云ひ居るはむつかしき様に思ふ。然し、誰も思ひきりて降下のことを云ひ出す人もなき様に付、自分が先づ云ひ出さんと思ひたることなり。現在の皇族は総て降下するのが当然にて……」
[3]旧宮家は、一般的には崇光天皇の子孫とされるが、同天皇は北朝側の天皇であるため、南朝が正統とされる今は正式な歴代天皇には含まれない。ゆえに宮内省諸陵寮『陵墓要覧』には、崇光帝の祖父で、両統迭立期の正当な天皇である後伏見天皇の子孫として記載されている。
【参考文献】
・右田裕規「戦前期「女性」の皇室観」(日本社会学会『社会学評論』第五五巻第二号、二〇〇四年)
・浅見雅男『皇族誕生』(角川書店、二〇〇八年)
・近藤さやか「『伊勢物語』と業平伝説:愛知県を中心に」(学習院大学人文科学研究所『人文』第一五巻、二〇一六年
・赤坂恒明『「王」と呼ばれた皇族:古代・中世皇統の末流』(吉川弘文館、二〇二〇年)
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