
【静岡県の皇室伝承】3.桓武天皇の第四皇子「戒成皇子」の東下り伝説(磐田市国府台)
磐田市の「戒成皇子」伝説
静岡県磐田市の国府台には、人皇第五十代・桓武天皇の第四皇子とされる「戒成皇子」という皇族についての伝説が残っている。
『遠江国豊田郡上野原戒成皇子御館由緒』という古文書がある。江戸時代中期に「先祖の口伝」を書いたものとされるこの文献から、一部を引用する。
(前略)扨、桓武天皇の皇子戒成皇子、浮世を深く厭ひたまひて、雲の上より此国へ遷りたまふ濫觴(※筆者注:きっかけ)は、当今父帝の玉座の辺にして、白き雀を寵愛ましまし、日々に叡覧ありしを、一日篭の戸を邂逅に開きければ、白雀忽然と飛び去りて、南殿の白砂に止りしを、皇子つづいて行きたまひ、「詔にてあるぞ本のごとく篭に帰れ」と宣命ければ、白雀は皇子の御手に入りぬ。其時皇子の左の御足、しきりに痛みたまひし故、博士を召して卜占たまひしに、博士奏聞申して曰く、「此君後に宝祚を保ちたまふ御身なるに、膝つきの例なくして、大地を歩みたまひし故に、天地の鬼神の御いかりにて癩人(※ハンセン病の患者)となりたまふ」と聞へしかば、皇子涙を流したまひ、密かに玉輦(※貴人の乗り物)をめされ、御随身に御護せられ王宮を忍び出てたまひ、都をば涙とともに立ち出でて、又かなしみに相坂の関をこえたまひ、みのおはり(※「身の終わり」と「美濃尾張」を掛けているか)はいつとも知りたまはず、はるばるここに遠江の国に着きたまひ(後略)
この続きはまた後で触れるとして、ひとまずこの現代語訳を次に示そう。
桓武天皇の皇子であらせられる戒成皇子がこの世をたいそう厭わしく思し召して宮中よりこの国へとご移住になったきっかけは、幼い頃に白い雀を飼っておられたことである。
ある日のこと。皇子が鳥籠の戸を開くや、その雀は飛び出して外に逃げてしまった。雀は南殿の白砂に止まった。皇子は急いで駆け寄り、
「命令です。元の籠に戻りなさい」
と言われた。すると雀は皇子の手に止まったが、この時から皇子の左足が急に痛み始めた。
何が原因で、どうすれば治せるのか。博士に占いをさせた結果はこうであった。
「この君は皇位をお継ぎになるべき立派なお方でしたが、膝つきの例をおこなわずに歩かれたために、天地の鬼神のお怒りを買ってしまわれ、ハンセン病の患者になってしまわれました」
そうお聞きになって嘆き悲しまれた戒成皇子は、臣下らに守られて皇居を抜け出され、いつ果てる身ともご存じないまま東下りの旅にお立ちになり、やがてはるばるここ遠江国にご到着になった。
京見塚古墳
戒成皇子が遠江国に来られるまでを現代語訳したところで、以下、国府台にある具体的な戒成皇子の旧跡を示していこう。
一三基の小規模な古墳時代後期の古墳がまとまっている「京見塚公園」。その中心的な存在がここ、京見塚古墳だ。

『遠江国豊田郡上野原戒成皇子御館由緒』の続きを記す。
(前略)はるばるここに遠江の国に着きたまひ、跡なつかしくおほしめし、都のかたをかへり見たまひ
「衣手のなみだに空もはれやらで、都のかたは白雲ぞたつ」
と打ちしほれたまひし処を、今は都見田と云所の名となりぬ。(後略)
伝説によれば、遠江国に到着された戒成皇子は、この塚にお登りになって遥かなる京の都を偲ばれ、西の空を振り返られた。このことから「都見田」という地名が付けられて、後世にこれが「京見塚」となったという。
この古墳は五世紀の後半頃、古墳時代に築造されたものである。戒成皇子の父帝と伝えられる桓武天皇のご在位は平安時代初期だ。したがって科学的にはまずありえないが、戒成皇子の御墓だという言い伝えもあるらしい。

"衣手の なみだに 空もはれやらで 都のかたは 白雲ぞたつ"

《戒成王子由来記 一九八二》
戒成王子の物語は、古くからこの地に語り伝えられて来た美しくも哀しき物語である。
桓武天皇の王子戒成王が、不治の病を得て或る年(延暦元年七月との説もある)わずかな随臣を供にして東国に都落ちされ、旅のなかばで遠江国一言上野原(現高町地内)にとどまつて館を建て、ここ十余年住み、この地で世を終ったと伝えられている。
悲運な王子は望郷の念たちがたく、塚に登り、はるか西の空をながめ、都をしのんだという。
後世、この塚を「京見塚」と呼ぶようになつたと伝えられる。
この戒成王子の心境をよまれた表記の和歌一首が伝承されている。
「衣手の なみだに 空もはれやらで 都のかたは 白雲ぞたつ」
また王子は「人の子は何人と言えども、肉親合いつどい幸に過すが自然の姿。
私は諸人の不幸を断ち、諸人に幸をおくる権化となり、この世のある限り、人の世の続く限り、幸をおくり続けん」と申し残して、静かに瞑目されたと伝えられる。

別名 海上王子とも伝へられる"
余談ながら大正八(一九一九)年、東北東におよそ一〇〇メートルの場所にある常住山本性寺が、本堂を再建する際に壁土として用いるためにこの古墳の土を掘って、当時の宮内省からきつくお叱りを受けたという。
王屋敷
京見塚古墳の赤土を本堂に使って宮内省に怒られたという常住山本性寺。同寺からほんの五〇メートルほど北に行った場所(国府台一七一番地)を、昔は「王屋敷」と呼んだらしい。なお、その屋敷の門前を「門口」と呼んだという。

再び『遠江国豊田郡上野原戒成皇子御館由緒』を読もう。
(前略)今は都見田と云所の名となりぬ。然るに一ト言の上野原にして玉輦を止め奉り、方一町に築垣をしつらひ、御館をかまへて、ここにとどまりたまひ、志づのなさけを請けたまひ、上野の原の長吏の御館と申し上げるなり。(後略)
国府台においでになった戒成皇子は、薨去するまでの間、当地に「御館」すなわち屋敷をお構えになって住まわれたという。この「御館」の別名が「王屋敷」というわけだ。
土器塚古墳
五世紀前半すなわち古墳時代中期に築造された古墳である。したがって、京見塚古墳と同じく時期的にはありえないのだが、この地にお住まいだった戒成皇子やその従者らがお使いになった土器を捨てるうちに塚になった場所だと語り継がれており、その伝説が「土器塚古墳」という地名の由来になった。

現地の看板の中から、戒成皇子についての記述のみを抽出する(※名前の由来はすでに書いたので除く)。
「戒成(海上)皇子伝説」とは
桓武天皇の第4皇子に戒成皇子という人がいて、この地に住んでいたという伝説があり、「京見塚」「王屋敷」など、伝説に関わる地名も残っています。桓武天皇には同名の皇子はいませんが、天皇の叔父に海上王、兄に開成がいたといわれ、遠江土師氏の伝える応神天皇の皇子・大山守皇子とその子津布良古王伝承(土方家系図)とが統合されたものと思われます。

共同墓地の「御陵」
国府台には京見塚古墳の他にも、戒成皇子が葬られたと伝えられる場所がある。
国府台の共同墓地の辺りはかつて「王院」と、墓地の前の道は「王道」と呼ばれていたという。その墓地の正面に、半円形の大きな墓がある。戒成皇子ならぬ「海上皇子」の御墓だとされ、「御陵」や「王様」などと呼ばれてきたものである。
昭和八(一九三三)年までは墓地の真ん中にあり、土盛りの円墳だったという。地区のあちこちにあった墓を集めて共同墓地を整備するときに、今の位置に移して、天竜川からこぶし大の丸石を運んで周りを葺いたそうだ。

「御陵」の左右には、従者たちの墓といわれていたものが並べられている。土盛りの円墳だった頃には「御陵」を囲む形だったが、昭和八年の整備の際に今の形に変更されたのだという。なお、「御陵」の右にある碑文は、この整備の時に置かれたものである。

かつては皇子の命日である三月二十六日を「桓武さま」と呼んで、団子を作って「御陵」に供えたという。また「玉輦を引く綱の切れたところを終の棲家としたい」と仰ったという言い伝えにちなみ、墓前で子供たちが綱引きをする光景が見られることもあったそうだ。
それらは残念ながら絶えてしまったけれども、今でも毎年三月には慰霊の法事が営まれているとのことである。
白山神社
『遠江国豊田郡上野原戒成皇子御館由緒』を長く伝えてきた神社である。ご祭神の一柱として戒成皇子をお祀りしている。

【由緒】梅原村字中向に在り。祭神は、桓武天皇の皇子、戒成王従者五名を召連れ、東行し給ひ、当地にて薨去あらせられしに依り、後その霊を祀りて、白山神社と称せり。而して当時の従者は、即ち当村の祖先なりと、社記に在り。……

その他
国府台にはこの他にも戒成皇子に関係する地名がいくつもあった。具体的には、壊れてしまった皇子の玉輦を直したという「車坂」、従者たちの子孫が住んだという「三軒家(三軒屋)」、京見塚を築く時に土を掘り取った跡だという「院基池」などだ。残念ながら、それらは今では遺構どころか地名すら残っていない。
おわりに
ここまで磐田市国府台に残る戒成皇子の伝説を取り上げてきたけれども、そもそも彼は『皇統譜』に載っておらず、おそらく実在の皇族ではない。
鎌倉時代の仏教通史『元亨釈書』によると、桓武天皇の一代前の光仁天皇には「開成皇子」と仰る皇子がおありで、この皇子をモデルに創作したのではないかと推測されている。
いずれにせよ、現地では伝承として大事にされていることは確かである。近年では、佐藤典子舞踊団により「京見塚と戒成皇子」と題するバレエ作品になっている。
参考文献
・静岡県磐田郡教育会『静岡県磐田郡誌』(一九二一年)
・磐田市観光協会『磐田むかしばなし』(一九八一年)
・磐田市高町会館『京見塚と海上皇子』(二〇〇〇年)
・磐田市教育委員会『京見塚古墳群発掘調査報告書』(二〇〇一年)
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