【書録切書】 十月三日条 「歩く」
中祇園です。
久しぶりにいろんな本からスクラップしてみました。
今回はアンソロジーで「歩く」に関する記述を集めています。
(解釈は皆さまにお任せします)
①福山雅治 『それがすべてさ』
さぁ始めよう もう止まらない
もっとドキドキ生きてゆこう
歩き出さなきゃ それが大事さ
もっと自由に Let's Dance Dance Dance!
②さユり 『月と花束』
深い森の中で私たちは
たった一人きりで生まれ
大切なものに出会う為歩き出す
(最近流行ってるFateシリーズのアニメ作品『Fate/EXTRA Last Encore』のエンディングです)
③山岡敬和 「<歩く>ものたちの<説話>」
(『説話文学の方法』新典社、2014年)
このように『宇治拾遺物語』においては、多くの<歩く>ものたちの姿が鏤められて作品を特徴づけている。それは<歩く>という行為の位相と説話という形態とが、密接に絡み合っているからと考えられる。人は自らが生活する日常的場(ここ)を後にして<歩く>行為を開始した瞬間から、彼方にある世界との出逢いの可能性や、今までとは異なる場へと移行する可能性に包まれるのである。
④中村生雄 「狂気と好色をめぐる物語」
(『日本の神と王権』法蔵館、1994年)
それでもなお、若し日本の巡礼に際立った特徴があるとするなら、それはどこに求められるだろうか。たぶんそれは、険しい巡礼路を<歩く>こと自体に滅罪と浄化の意味を求めようとしているところにあるだろう。
(中略)
寺社に到り着いたうえでの勤行とか参籠などではなく、そこに到達するまでの苦しみにみちたプロセスのなかでこそ、巡礼者はみずからの身心に蓄積した罪と穢れが清められ、正常な身心がよみがえることを実感したに違いない。<歩く>ことが、苦痛でありながら、それにもまして快楽でもありえたという逆説が、そこにはある。(225-226頁)
⑤内田樹 「解説 僕たちの「移行」と「混乱」について」
(平川克美『移行期的混乱』ちくま文庫、2010年)
価値はモノに内在しているのではなく、それに「価値がある」と思うものの出現によって生成する。ある種のケミストリーによって価値が無から生まれる。それが交易の奇跡である。たいせつなのは、その奇跡を信じて、ひたすら「歩く」ことである。歩き続ける限り、そこに交易のチャンスがあり、自分が持っている「役に立ちそうもないもの」のうちに死活的に重要な価値を見出す人と出会うチャンスがある。(309頁)
一つでも心に引っかかる言葉があると嬉しいです!
また気が向いたら別のテーマで書きます〜。