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【書録切書】五月九日条(『快楽主義の哲学』ほか)
※直近で読んだ本の中で、心に残った箇所をスクラップしてまとめました。
■ 一覧 ■
・澁澤龍彦『快楽主義の哲学』(文藝春秋、1996年)
・宮本常一『忘れられた日本人』(岩波書店、1984年)
・アルフレッド・シュッツ『現象学的社会学』(森川眞規雄・浜日出男訳、紀伊國屋書店、1980年)
■ 澁澤龍彦 『快楽主義の哲学』 ■
今流行りの栄一さんではなく、親戚の龍彦さんの方。大学の生協書籍部で目に入ったので買って読んだ。読むとアホみたいに元気が出ます。そういえば、去年『高岳親王航海記』の漫画版が出て有名になっていたらしい(積読になってる)。
そうです。そのとおりだと思います。どこかにあるような気がする「幸福」などにあこがれて、溜息をついているばかりでは、どうにもなりはしない。そんなうじうじした感情は、きれいさっぱり、ふっとばしてしまったほうがよい。色めがねをかけかえることです。とたんに世の中があかるくなる。赤んぼうが笑うとき、幸福だから笑うのではなく、笑うから幸福なのだということを、考えてみる必要があります(37頁)。
むかしの高等学校(旧制)の生徒なども、そういう風潮に骨の髄まで毒されていて、いつも深刻な顔をして、「人生いかに生くべきか。」という大問題を頭にかかえておりました。そのため、華厳の滝に飛びこんで自殺してしまった気の毒な高校生もあります。戦前までは、倉田百三とか、西田幾多郎とか、阿部次郎とかの本が、彼らのバイブルでした。わかってもわからなくても、教養として読まなければならなかったのです。まあ、いってみれば、精神的マスターベーションみたいなものです(48頁)。
>明治から大正時代にかけての思想的風潮をもののみごとにバッサリ斬っていて、痛快である。
>西洋思想だと、デカルト・カント・ショーペンハウアーを読んで、あとは寝ていたのだという。気楽で羨ましい限りである。
いずれにせよ、生活の手段としての労働、いやいやながらする労働は、人間性を疎外するだけなので、わたしたちとしては、どうすれば「労働」をできるだけ「遊び」に近づけることができるか、という問題に真剣に取り組まないわけにはいかないのです(214頁)。
人間の本質的機能を「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)として示したのは、有名なオランダの歴史家ホイジンガですが、ーー人間が労働の鉄鎖を引きちぎって、子供や動物と同じように、いつでも遊んでいるような存在にならなければ、真の意味で、社会や文明が進歩したということにはならないのだ(216-217頁)。
■ 宮本常一 『忘れられた日本人』 ■
民俗社会のアウトサイダーの生き方を浮き彫りにした名著。ここではとりあえず、有名な章らしい「土佐源氏」から。色んな意味で予想以上だった。
わしはなァ、人はずいぶんだましたが、牛はだまさだった。牛ちうもんはよくおぼえているもんで、五年たっても、十年たっても、出あうと必ず啼くもんじゃ。なつかしそうにのう。牛にだけはうそがつけだった。女もおなじで、かまいはしたがだましはしなかった(157-158頁)。
>悪い牛を良い牛だと言って騙して生計を立てる、「ばくろう」の過去語り。
ああ、目の見えぬ三十年は長うもあり、みじこうもあった。かまうた女のことを思い出してのう。どの女もみなやさしいええ女じゃった(158頁)。
>締めの1文。そんじょそこらの小説よりも感慨深いような気がする。全米号泣マチガイなし。
■ アルフレッド・シュッツ 『現象学的社会学』 ■
自分以外の社会集団の考え方をどのようにして理解できるかを問うた研究。アンソロジーなので比較的読みやすく、いろんな箇所に示唆が盛り込まれている。今回は第1〜3章より。
シュッツの業績は、異文化=他者理解の内在的方法を明確にした点にあるといえるであろう。シュッツの場合、内在的な他者理解の方法に沿って展開されるのが、自分をとりまく現実世界の分析なのである。すなわち、それは「自己解釈」を理論的に進めてゆく過程としての「生活世界」の分析であり、その構造の解明から行為の持つ意味の解明、そして、社会関係という他者との出会いのレベルにおける「理解」の問題としての、「間主観性」の重要さの指摘である。このような理論的展開こそ異文化理解の基礎理論として大きな意味を有するものというべきであろう(青木保、iv-v頁)。
>前書「異文化理解の基礎理論」より、簡潔なシュッツ理論の説明。
経験の「意味」とは、経験を行動として理解することの解釈枠組にほかならないのである。したがって、明らかに行動の場合にも意味を持つのは、すでになされてしまったものだけである。前現象的な能動性の経験はいまだ有意味ではなく、自発的能動性として反省的に知覚された経験だけが意味をもつのである(21頁)。
いいかえるなら、よそものにとって、接触集団の文化パターンとは避難所ではなく、冒険の場である。つまり、自明な事柄ではなく、探究されるべき疑問領域であり、問題状況をときほぐすための用具などではなく、乗り越え難い問題状況そのものなのである(53頁)。
したがってよそものは、しばしば、習慣的な生活様式の存続を信じている内集団の成員には見過ごされてしまうような、「相対的に自然な世界観」を根底から脅かしかねない危機の兆候を、苦渋にみちた慧眼さで気付くことになる(54頁)。
>社会的危機の察知は「よそもの」的視点によってなされる。どうやら社会の中で生きている我々は、王様が裸であることになかなか気付くことができないらしい。