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「おら昔っこ語っている時が一番幸せだ」 語り部 対馬てみさん
青森県北津軽郡金木町(現五所川原市金木町)出身の小説家太宰治が津軽地方の土地や人々を描いた小説「津軽」で物語の終盤かつて自分の子守をしていた女性「タケ」と約30年振りに再会する場面があります。
この場面で二人が再会を果たしたとされる中泊町小泊地区に平成元年『小説「津軽」の像』が設立され、隣接する『小説「津軽」の像記念館』では小説「津軽」の詳しい紹介を写真や年譜等で紹介しています。
記念館では毎月二回、語り部の對馬てみさんが太宰治の小説や昔話を語っています。
今回のインタビューでは對馬てみさんが語り部を始めたきっかけ、そして『小説「津軽」の像記念館』の設立についてインタビューしました。
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人のために役に立つ者になりへ
私は町村合併する前の旧小泊村にある下前という所出身です。ここからは山を一つ越えたところにあります。
そこで育ち下前小学校、下前中学校を卒業しました。高校は弘前南高校を卒業し、村営の保育所に保母見習いという形で採用されました。
採用された年のうちに青森県で行われている保母試験を受け保母の資格をとりました。それで24歳になる年に下前から小泊に嫁コに来たのさ。
——24歳から今までどのようなことがありましたか。
三つの保育所で勤めて当時は保育所は村営だったので地方公務員で役場の事務をとったこともありました。
町村合併する2年前に役場のほうに勤務になったのさ。福祉課のほうに2年いて、町村合併した年に産業課小泊分室に異動となり観光を担当しました。
その後は「すくすく下前館」(下前にあるコミュニティセンター)の担当に移動になりました。その時にあと4年で退職という所だったんだけど、骨肉腫を患ってしまい義足をつける身体障害者になりました。
そういう生活を送りながらあと1年10ヵ月で退職という時に、小泊保育所に14年2カ月ぶりに所長として帰ってきたのさ。そこで定年退職になったんです。
——教育や福祉など人のために奉仕する分野で活躍されていたんですね。
それはそうだね。
高校卒業して自分が就職するっていう時にうちの父親に「人のために役に立つ者になりへ」って言われたのさ。
地方公務員という立場で働くことになったので、なおさら父はそういうことを言ったんだと思いますけどね。
——ご両親はどのような仕事をされていたのですか。
父は漁師でした。母は躁鬱病を患う病人だったんだけど。
調子の良い時にはボランティアとか奉仕活動をするような人だったのさ。PTAや婦人会役員だったり、民生委員とかやっていたのさ。
そんな親を見て一つ短歌作ったんだよ。
「我今も 奉仕の心燃やしおり 父の一言 母の背を見て」
父親にそういうふうに言われたしさ。母は体調がガクッと悪くなってしまう時もあったんだけど、元気な時はボランティアをしていた人なので。
育った環境がそうだったので、それが当たり前だと思っていたのさ。
それがさ嫁コにきたら婚家では食料品店を経営していて、ボランティアどころではないんだな。
人間って奉仕の心を持っているのがあたり前だと思っていたけど違うんだなって思いましたね。
身に沁みついていたばっちゃの昔っこ
――てみさんはどのようなきっかけで語り部を始めることになったんですか。
おらには明治19年生まれのばっちゃ(おばあちゃん)がいて、ばっちゃは字も書けないし字も読めない人だったの。三つ年上のじっちゃはさ読み書きは出来ていたのさ。
ばっちゃは神さまや仏さまを大事にする人であった。
念仏を覚えたいという気持ちが強くて、寝る前にじっちゃに読んでもらって学んでいたんだ。そういうばっちゃだったのさ。
ばっちゃは文字は読めなくても、昔っこ(昔話)をよく語ってくれる人であった。おらはばっちゃの昔っこを聞いて育った。
大人になって保育所に勤めて子供たち相手に絵本や紙芝居を読んであげたり、一緒に歌を歌ったり、散歩したり、そういう生活を送っていたらポロポロポロッと自然にばっちゃの口調で昔っこが出てきたのさ。
それで「あっ、おらも昔っこ語れるんだ」って知った時から、子供たちに保育所で語ってきたのさ。それが昭和48年の時なのさ。
――気づかないうちに身に染みついていたんですね。
うん、本当に。保母になったのは昭和44年で昭和48年の時には確実に語っているのさ。
というのは、その年、昭和42年生まれの子供たちに語ったあとに「今の昔っこさ何出てきたか描いてみて」って聞いて、画用紙に描いてもらったのさ。
そうしたら子供たちは、じっちゃ、ばっちゃ、豆っこ、太鼓、むじなっこ(アナグマ、タヌキ)とかを自分の印象で描いてくれたんだよな。それで昭和48年の時に確実に語っているって覚えている。
そういうことで語りの原点はばっちゃ。
おらさだけ語ったわけではなくて、ばっちゃは自分の子供(私の父親)にも語り内孫7人兄弟姉妹みんなにも語っていたと思うんだ。それでも語れるようになっていたのは私だけだったということなのかな。
故郷が語らせているのさ
ばっちゃから昔っこ聞いた時に、故郷の景色がよみがえってくるのさ。
例えば「ごんぼほりのわらしこ(駄々をこねる子供)」っていうのが話にでてくると、「隣の〇〇だな」っていうふうに近所の子が思い浮かんでくる。
そうやって昔っこに自分のふるさとを重ねて楽しんでいた。
保育所に勤めていた時は子供たちを散歩に連れて行って景色を見たり、自分がやっていた昔遊びをしたりそういう体験させてたりした。
子供達には故郷の風景と昔っこを繋げて覚えて欲しいと思う。
ばっちゃの昔っこのなかで孫に捨てられるばっちゃの話があったんだけど。
おらはもうばっちゃがその話をする時は布団かぶって聞いていたのさ。
大事に、大事に、育ててくれたばっちゃを捨てねばまいねんだものな。悲しくて、悲しくて、涙を流しながら聞いていた。
孫に山に捨てられたばっちゃが、山越えて沢を越えて海さたどり着いて幸せになっていくんだけどさ。
そのたどり着いた海が自分の故郷の浜なのさ。そういう感じで昔っこと故郷が一体になっている。
自分のなかで故郷と昔っこが一体になっていて、故郷の風景と人情が昔っこを語らせているのさ。
あなたのタケさんに気づいて欲しい
――てみさんは昔っこだけではなく太宰治の作品を朗読されていますが、太宰治とはどのような繋がりがあるんですか。
弘前南高校という所を卒業したんだけれども、弘前南高校の初代の校長先生である小野正文先生は太宰治の後輩なのさ。
岩手県久慈市に生まれて、青森中学校、弘前高等学校から、東京帝国大学に行った太宰治の後輩なのさ。青春時代に太宰治と同じ空気を吸いながら育った方なんですよ。
太宰治は誰にでも受け入れられる生き方では無いし、凄く苦しみながら歩んだ人生ではあったけれども。
小野正文先生は太宰がどうしてそういう生き方になってしまったのか、それを津軽という風土とか生きた時代を考察しながら、太宰を正しく理解して欲しいと御尽力なさった方なのです。
小野先生は私の高校時代、朝会の時もよく太宰のことを話していたんだ。私にとって太宰治は小野正文先生との思い出で繋がっているような気がしている。
それと太宰の家に仕えていた中畑さんという方とおらの家のじっちゃが遠い親戚だったところで、そういう繋がりもありました。
まあ自分にとって太宰治は家族の思い出とか先生の思い出がある方だったのさ。
母親がうつ病だったとこで竜神様(小説「津軽」の終盤でタケと太宰がこの神社にお参りした小泊の神社)によくお参りしていると、「竜神様ってどこですか」って聞く観光客に会うことがあって。
そうすれば「じゃあ竜神様まで一緒に行くべ」ということで観光客を案内することもあった。
そういう経験の中で「小泊は太宰治とゆかりの土地なんだよな」って心の中で思っていたのさ。
そうしたら昭和61年に役場の職員を対象にして「小泊村の活性化について意見を求める」という企画があったのさ。
その時に「小泊は太宰治にゆかりの土地なのに形となるものが何も無いから文学碑が欲しい。あの下前小学校の校歌を作詞してくださった小野正文先生は太宰治の研究者です。」という感じで提案したんだよ。
太宰治文学碑が欲しいっていう私の提案が通って表彰されたんだよ。
その時竹下登総理大臣がふるさと創生事業というのが平成元年にあって一億円の一部と全国の太宰治ファンから寄付を募って、そうして作られたのが太宰治文学碑であり小説「津軽」の像なのさ。
それと平成17年に青森県立美術館で小説「津軽」の演劇をやるということで一般人から役者を募集していたんだよ。
そうしたら娘に「おっかあ、小泊で太宰治といえばおめえだべ」といわれて、応募し、オーディションを受けたら合格してタケの役をやりました。
――すごい、タケさんを演じられたんですね。確かにてみさんの雰囲気はタケ役にぴったりだと思います。
小説「津軽」を朗読しているのはそういう太宰治とのつながりもあるんだけど、聞いている人に「あなたのタケさんに気付いて欲しい」という思いがある。
みんなそれぞれ心のなかにタケさんのような存在がいると思うんですよ。だから「津軽」を聞いて自分の中のタケさんに気付いて欲しいと思いながら語っている。
昔っこ語っている時が一番幸せ
――てみさんはどのような場所で語り部の活動を行っているのですか。
太宰治生誕100周年の年2009年(平成21年)からはこの『「津軽」の像記念館』で月2回、あと中泊町にある4つのこども園(こどまり、薄市、中里、冨野)。あと小泊にあるグループホームのすい賓荘、中里にあるキリン館、内潟療護園などです。
それと27日に津軽鉄道 津軽中里駅の駅ナカ「にぎわい空間」19日に金木駅で語っています。
――結構忙しいですね。
おら昔っこ語っている時が一番幸せなんだもの。
足が片方なくて身体障がい者になってしまったとこで働きたくても働けない状態なんです。だから語っている時が本当に幸せなんです。悩みなんか忘れて熱中しているんですよ。
自分が語れるというのはばっちゃが私に授けてくれた宝だからな。宝を独り占めしないで広げていこうという気持ちがあります。
今は動画も情報も溢れている時代で、この昔っこというのは聞くしかない世界だよ。
想像力で豊かにもなり平坦にもなる昔っこ。自分が聞いて育ってみて昔っこの持っている力は大きい。人を育てる力がうんとある。
だから子供には昔っこに親しんで欲しいし、もちろん大人にも聞いて欲しいと思っている。
「昔っこって初めて聞いた」っていう大人の人もいるけども、近所に昔っこ話すお姉さんがいて聞いて育ったっていう人もいた。
昔っことことん聞きたいって言ってくれる人もいるんだよ、わ幸せだっきゃ。
好きなだけ昔っこ語っている時が一番幸せだ。
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てみさんの昔っこがきける場所
・毎月 19日 金木駅
・毎月 27日 津軽中里駅
・月2回 小説「津軽」の像記念館
〒037-0511 青森県北津軽郡中泊町小泊砂山1080−1
0173-64-3588
※詳細は「津軽」の像記念館まで連絡して確認してください。
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