【「良かれと思って」に潜むワナ】
パワハラ、カスハラ、セクハラ、ソーハラ。
様々なハラスメントに対して世間では非常にセンシティブになっていると思いますが、『その言動がハラスメントか否かは受け取り手がどう思うかで決まる』と言われると、正直『面倒くさいなあ』とか、『そんなに目くじらを立てる話かなあ』と思わず言いたくなってしまうことはないでしょうか。私自身もこれまでの失敗を教訓に、注意深いコミュニケーションを心掛けていますが、相手のために言ったつもりのことがハラスメントと受け取られる不安と、逆に気を使いすぎて本当の意図が伝わらないというジレンマに依然として悩まされています。
最近、同様の悩みや相談を経営者やリーダーの方からよく伺うようになりました。これには、近年増加している様々なハラスメント行動の暴力性が影響している可能性があります。
私なりの整理では、セクハラは、極論をいえば結局のところ当人の道徳性の問題であると見なさざるをえないケースも多く、自分の利己的な欲望を相手にぶつけてしまっていることに対しての無頓着さ、「なんのかんの言って許容されるだろう」という甘い見通し、場合によっては、開き直りといった側面もあると思います。
それに対してパワハラ・カスハラは、当人が「自分に正義がある」と思い込んでいるように見えるケースが多いように感じます。その場合、正しいと思っているがゆえにパワハラをしている自覚がなく、行き過ぎた言動に歯止めがきかなくなってしまう。そうなれば、その矛先を向けられた場合にその場から離れるかフィードバックをするくらいしか対処方法がなくなってしまいます。そこに、大きな違いがあるのではないかと思います。
「良かれと思って」行動していることが大きな問題となっていることに、なぜ本人が気づけないのか。
そこにはどんな盲点が隠れているのでしょうか。
次回のLINE公式記事にて、その理由についてご紹介いたします。
今回は2 月7日(水)と~9日(金)の3回に分けてお届けしてまいります。
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