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たられば上賀茂民藝協團
小代焼中平窯の西川です(^^)
今回は過去に存在した共同体『上賀茂民芸協団』について考察していきます。
この共同体は柳宗悦氏の理想とした
『ギルド社会主義』
を体現すべく4名の作り手によって設立・運営されましたが、約2年間という短期間に崩壊してしまいました。
この崩壊について当の柳氏自身は「メンバーの意識が低いから失敗した」という程度の感想しかなく、なぜ崩壊してしまったのかという構造的・根本的な見直しや考察をしていないんですよね。
そこで『上賀茂民芸協団』が結成→崩壊して約100年が経過した今、根本的な崩壊の原因はいったい何であったのか、そして
「こうしとけば良かったんじゃないの?
まぁ、成功しないまでも、2年と言う超短期間での崩壊は免れたのでは?」
という〚たられば〛を含めて考えてみようと思った次第です。
上賀茂民芸協団とは
1927年(昭和2年)の京都で『上賀茂民芸協団』は誕生しました。
メンバーは
・黒田辰秋ー木工
・青田五良ー織物
・青田七良ー金工
・鈴木実ー染色 件 雑用
の4名です。
しかし、青田五良氏は胸を病んで倒れ、黒田辰秋氏は一時再起不能かと思われるほどに心を病みました。
さらに団員の会費、青田五良氏の同志社中学からの給料、鈴木実氏の家庭教師料からなる運転資金では経営上の困難が生じたようです。
そして約2年後の1929年(昭和4年)、上賀茂民芸協団は崩壊する事となります。
以下の章では崩壊の原因を一つ一つ考察していこうと思います。
各個人の圧倒的技術力不足
この4名の中で工芸家としての修練を積んだ者は黒田辰秋氏(実家が塗師)ただ一人でした。
青田五良氏は前年に織物を習ったばかり、青田七良氏にいたっては木工の黒田辰秋氏から金工の指導を受け、鈴木実氏は青田五良氏の織物のために急遽染色を手掛け始めるという状態。
この各メンバーの技術力不足は、柳氏の高潔な精神論だけでは覆い隠すことのできない欠落でした。
この時点で、柳氏の掲げる民芸の条件とはかけ離れた集団であることが分かります。
親方の不在
本来のギルドでは まずあり得ない状況ですが、親方が不在であるということも崩壊の要因でしょう。
理論・思想としての支柱は柳氏が十分にその役割を果たしましたが、如何せん柳氏は自らの手で工芸品を生み出す技術がありません。
各個人の技術力不足は先に書きましたが、本来のギルドでも見習いに技術が無いのは同じことです。
しかし本来のギルドでは、親方・熟練工・職人という先輩方の指導を数年間受けることで、若い見習いも立派な職人へとステップアップしていきます。
『上賀茂民芸協団』には技術を指導する親方が不在のため、技術的なステップアップのしようが無いんです。
何事もそうでしょうが、全くの独学で何かを成すにはそれなりの覚悟、時間、情熱がなければモノになりません。
分業制を採用しなかった
ここも本来のギルドとはかけ離れている部分であり、柳氏の基本的な思想からも矛盾している部分です。
メンバーそれぞれがそれぞれにジャンルの違う工芸品制作に取り組んだことを、なぜ柳氏が良しとしたのか?
『上賀茂民芸協団』について調べる際に、この制作体制についていつも首を傾げてしまいます。
例え話ですが、彼らが取り組んだことが仮に焼き物(絵付けあり)であった場合
1・土作りと釉薬作り、原材料の仕入れ
2・素地成形、ロクロ・タタラ・型打ちなど
3・絵付けと釉掛け
4・窯詰めと窯焚き、焼き上がり後の仕上げ
といった具合に4人で分業すれば、各作業の技術習得は幾分早くなるでしょうし、機械には劣るとしても一定規模の量産も可能です。
このような言い方をしていいか分かりませんが、
今風に言うと『上賀茂民芸協団』は個人作家4名がシェアハウスしてるだけなんですよね。
各個人の技術力不足+親方の不在+分業制の不採用とくれば、
当然のように技術の向上は至難の業。
柳氏は誰もが美に行き着く容易い道を何度も何度も説いたにもかかわらず、『上賀茂民芸協団』はわざわざ自ら難しい道をつき進んで行ったのです。
柳氏の言葉を借りれば険しい修験道を意図的に選んでいたかのようにさえ見えてしまいます。
〚たられば〛上賀茂民芸協団
あくまで [たられば] の話ですが、このようにすればもう少しマシな共同体になっていたのではないか?
という私の仮説を書かせていただきます。
・制作する分野を1つに絞り、4名で分業する。
(最も技術的に進んでいた黒田辰秋氏の木工・漆芸を中心に分業する事が現実的だったかも?)
・確かな技術を持つ熟練工を親方・指導者として迎える。
上記の2つを行うだけでも、技術的な問題は解決するのではないかと思います。
このことに柳氏は気付かなかったのでしょうか?
上賀茂民芸協団の崩壊時の柳氏はまだまだ40歳。
この失敗を正面から分析・検証していれば、第2の民芸協団を立ち上げることも十分にできたのではと思ってしまいます。
この理念はある程度実現されて、京都市上賀茂町の古い社家の建物を借りて、青田五良(織物)および鈴木実(染色)青田七良(金工)黒田辰秋(木工)が同居して、仕事にいそしんだ。
約一年後、作品展観をなし得るほどに仕事はすすんだが、生活の道徳面に欠如が現れて、二年後私が外遊中に解散を余儀なくされた。
しかしこれはかへつて非常に有難い経験となり、また教訓ともなつた。
しかし、この有り難い経験と教訓を柳氏が現実世界へ活かす機会は、とうとう訪れませんでした。
その後、柳氏は妙好人と呼ばれる極端な善行を行う人々のエピソードに心を寄せるようになります。
妙好人の徹底した自己儀犠牲のありようは、善人ぶりが過ぎてむしろ血の通っていない無機物のようにさえ感じられるのですが、上賀茂民芸協団の崩壊を「メンバーの道徳面の欠如」と認識していた柳氏には、妙好人は理想の人間像に映ったのでしょう。
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