〚民芸の真髄〛は理論じゃなくて美意識なのでは?
※小難しい文章になりました(・・;)すみません。
※下の記事は、同じようなテーマをもっと簡単に書いています。
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ここより下が、この記事の本文です。
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小代焼中平窯の西川です。
最初に言いたいことをまとめます。
「理論や言葉から美意識を理解するのは難しいよね。
理論について考えすぎると、
柳さんの美意識と全く関係ない話題に飛んで行ってしまうこともあるし。
しかも、
民芸理論の条件を満たしていることと、柳さんの美意識はイコールじゃないんじゃないかな?
おまけに、今の日本では民芸の条件をすべて守ることは難しい。
それならば、
理論は深追いせずに、
柳さんのコレクションを実際に眺める方が
柳さんの美意識に近づけるんじゃないかな?」
言葉で美意識は理解できる?
民芸を見る時に、
「柳氏の美意識」と「理論・思想」は別々に考えた方が
分かりやすいんじゃないかなと思いまして。
いや、むしろ
初めて工芸や美術理論に触れるような人にとっては、
「理論・思想」ばかりが先行しすぎてしまうことで、
「柳氏の美意識」への理解を かえって妨げている場合もあると感じています。
柳氏は直感的に見ること(川の上流)から始まり、
見続けることで自身が美しいと思うものに共通点らしきものを見つけ、
その後、その共通点らしきものを体系的にまとめて民芸理論としました(海)。
この逆である
残された言葉や理論(海)の方向から遡って柳氏の直感的な美意識(川の上流)を知ろうとする場合がありますが、
言葉や理論から遡ってしまうと 柳氏の直感的な美意識にたどり着けないこともあるようです。
どんなに小さな川でも、
最終的には海へ行き付くことが決まっています。
しかし、海に存在する水が いったいどの川から流れてきたのか、
あなたには分かりますか…?
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理論先行の違和感
近頃、民芸理論を応用して
デジタル分野の将来にまで話が発展している場面を見かけました。
「デジタルが持つ廉価性とか実用性とか、言葉や理論上では 民芸理論と合致しているんだけど、
そもそもの柳さんが大切にしていた美意識はどこへ…?」
「分野を横断する知識量は凄いけど、柳さんが言ってたことから飛躍しすぎて、
それはもう民芸の話ではないんじゃないか…?」
と、その時に思いました。
理論ばかりが先行してしまって、
柳氏が言葉を通して一番伝えたかった
「柳氏が感じる美しさとは何か?」の話が全く出て来ないんです。
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日本料理の例え話
むかしむかし
とある美食家(柳氏)が、彼の舌に合う美味しい料理(柳氏の美意識)には共通点のようなものがあると感じていました。
彼は自分好みの料理を日本料理(民芸)と命名し、
その共通点は出汁を使用(民芸理論)したことだと発見します。
彼は日本料理(民芸)は素晴らしい料理であると言い、
出汁を使用(民芸理論)することが美味しい料理(柳氏の美意識)になる条件だと言いました。
その話を聞いた現代の人々は、
出汁を使用(民芸理論)するだけで、美味しい料理(柳氏の美意識)になると考えました。
しかし、
出汁を使用した日本料理だからと言って、
その全てが美味しい料理になる保証はありませんでした。
↑↑↑
・美食家(彼)=柳宗悦氏
・日本料理=民芸
・出汁を使用=民芸理論
・美味しい料理=柳氏の美意識
井戸茶碗の話
焼き物関係者以外にも分かるように、敢えて日本料理の例え話をしました。
これからはリアルな焼き物の話をします。
茶碗の王様、井戸茶碗の『喜左衛門』についてです。
井戸茶碗のよく言われる約束事として
・枇杷色
・竹節高台
・高台内の兜巾
・3段~5段のロクロ目
・梅花皮(釉薬の縮れの意)
・3個~5個の目跡
・総釉
・細かな貫入
などが挙げられます。
しかし、
『実物の井戸茶碗を一度も見ずに、約束事だけしか知らない状態で作ってしまうと、
すべての約束事を忠実に守ったとしても、本物の井戸茶碗とは違う茶碗が出来上がる。』
逆に、
『実物をその目で見て、一つ一つの約束事に縛られずに井戸茶碗の良さを感覚的に理解して作れば、
守れなかった約束事があったとしても、前者よりも本物の井戸茶碗に近づくことができる。』
そしてここに
すべての約束事に忠実で、本物の美意識からかけ離れた茶碗
と
一部の約束事を守っていないが、本物の美意識に近い茶碗
の二つが出来上がります。
短い話ですが、
焼き物関係者には 料理の話より真実味があるんじゃないでしょうか?
まぁ、約束事を守った上で美意識も近いとなれば、それが一番理想的なんでしょうけど。
ちなみに、例として取り上げた井戸茶碗について、柳氏は朝鮮半島ではありふれた庶民の飯碗であるとしました。
しかし、朝鮮半島から完品の井戸茶碗は発見されておらず、
井戸茶碗の正体は断言できません。
白磁の試作品説、祭器説、庶民の雑器説、注文品説、etc…議論は今なお続いています。
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実際の民芸理論を考える
日本料理や井戸茶碗の例え話は 民芸理論についても同じで、
民芸の9ヵ条を守ることと柳氏の審美眼にかなう物を作ることは
必ずしもイコールではないと思っています。
民芸理論をすべて満たしていて柳氏の審美眼にかなわなかった品物と
高価で実用的ではないが柳氏の審美眼にかなった作品の
二通りが存在しているんです。
実際に
民芸品の特性を全て満たしたとしても、
柳氏の審美眼にかなわないものはコレクションから外されました。
さらに
主な活動メンバーであった濱田庄司氏・河井寛次郎氏は民芸派ではあるものの、無名の職人ではなく
「個人作家」として活躍されました。
お2人は作品そのものには銘を入れていませんが、基本的に 作品に付属する木箱には署名を施され、個展で新作を発表されました。
器の裏に入っていた銘が、木箱の裏や個展会場の看板へ移動したとも言えます。
お2人が多用された技法は、その土地に古くから伝わる伝統的なものではなく、
あらゆる産地の技法をミックスしたり、独自のアレンジを加えたものでした。
作品価格は当時から相当に高く、
とても窯場周辺の民衆が、台所用品として普段使いするような価格設定ではありません。
具体的に書きますと、安価な土瓶が三銭くらいであった時代に、
濱田氏が自作の土瓶を、その300倍~500倍の価格で展示販売されていたことがあるようです。
作品は実用品ばかりではなく、
最初から飾ることを想定された大作や複雑な形・色彩の花器などもありました。
河井氏に関しては、過去に例のない独創的なオブジェも積極的に制作されています。
柳氏は、お2人の作品に『美しさ』を見出し、絶賛していました。
この事実は
柳氏の美意識と民芸理論が、必ずしもイコールではないということを示しているのではないでしょうか?
※河井氏へは度々「やりすぎるな」と注意しておられたようですが。
↑
これ、お2人の作品を悪く言っているわけじゃないんです。
実際に、実物を見ると素朴さや力強さに感心しますし。
『民芸の条件に忠実であること』と
『柳氏が美しいと感じること』が、
実は そこまで関係がないんじゃないかな?
ということを言いたいんです。
理論ではなく審美眼が真髄(意訳)
出川直樹氏は
「民芸理論は理論としては破綻しているが、
柳氏の審美眼は素晴らしい。
これを理論ではなく柳氏の “好み” や “様式” と捉え、
民芸様式の質や価格を市場経済に任せれば発展できる。」
という趣旨の主張をしました。
この出川氏の主張を知ってか知らずか、
現代では、世間一般で民芸と呼ばれているジャンルの
生産体制や価格設定や宣伝方法などなど
結果的に出川氏の主張した通りの世の中になっていると思います。
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民芸理論と社会制度
そもそもの話になりますが、
民芸理論と資本主義ってあんまり相性良くないと思うんです。
と言いますのも、
柳氏は日本がギルド社会主義という社会制度になることを前提に理論や思想を展開されていまして…。
ですので、
柳氏の理論を現代の資本主義の中で実践しようとすると、
理想と現実がどうしてもかみ合わない部分が出てきてしまいます。
以下の引用は柳氏が自ら問い、自ら答えている内容です。
例えばですが、
機械を使わずに、大人数(分業制)で工房を運営する。
新技法を開発せずに、
その土地に伝わる伝統的なデザインや色彩に作風を限定して無名で集客する。
さらに、
本当の意味で誰もが買い求められるほどに安く売ると、
工房の運営資金とか作り手の給料とかが足りなくなったり…。
そもそも無名であるため、全く集客できなかったり…。
※ここで言う無名は単純に『作品に銘を入れない』というだけの意味では無く、共箱に箱書きしたり、名前を使って宣伝したりもしないという意味です。
※他の美術品と比較して安価ではなく、『誰もが買い求めれれるほどに安価』であることが大事なポイントです。
↑
これも、現代の社会制度を批判しているわけじゃないんです。
個人的には現代の社会制度を受け入れております。
「民芸理論と資本主義は折り合いがつかないですよね」ってことを言いたいんです。
そういう事情もあって
資本主義の日本の中で、
無理やりギルド社会主義を土台とした民芸理論を成立させようとするよりも、
理論は一旦置いておいて、
「柳氏の美意識」=
「理屈ではなく、柳氏の好み・柳氏の主観・柳氏の審美眼」
にフォーカスした方が良いのではないか?
と思っている次第です。
柳さんへの想い
私は幼い頃から
「ありのままの小代焼や小代焼の正しい歴史を、
正当に評価してくれる人が誰もいない…」という不満を持っていました。
私が10代の終わりの頃、
本の中の柳氏は、私の心を拾い上げてくれた人物なんです。
18歳~19歳の若い私は、周りが見えなくなるほどに、本の中の柳氏にのめり込みました。
特に大学2年生の頃は授業と授業の間に急いで図書館へ駆け込み、
柳氏の著書をひたすらノートに書き写す生活を送っていました。
29歳の私は、柳氏の考え方に共感しなくなってしまいましたが、
10年前の青年期の私が柳氏に救われたのは事実です。
何年後になるか分かりませんが、このことはいつか詳しく書きたいと思っています。
私の柳氏に対する感情の変遷は別の機会に回しますが、
今回は私から柳氏への手紙という形で〆させていただきます。
柳さんへの手紙
柳宗悦様
10代の若い私に手を差し伸べてくれて、ありがとうございました。
きっとあなたがいなければ、
私の青春時代はもっと頼りないものになっていたでしょう。
大人になった私は沢山の美術や工芸に触れ、
様々な思想を知っていく中で、
今ではあなたのそばから離れてしまいました。
しかし、
20年後、30年後には再びあたなに近づく日が来るかもしれません。
逆に、もっと遠くへ離れてしまうことも あるかもしれませんが。
それは その時にならないと…、今の私には分かりません。
今ではあなたとは違う、私自身の考えを持っておりますが、
若い私があなたに救われたのは事実です。
あの日あの時に、
本の中のあなたが私を救ってくれたこと、
心から感謝しております。
ありがとうございました。
令和5年7月5日(水)
西川智成
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