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AIが進歩するとIQは低下? -知能拡張という考え方
AI関係者と話をする中でよく登場するのは、「生成AIが進化すると、ヒトのIQは低下するのか否か」という議論です。あなたはどう思いますか?
今回はこの問いについて、僕の私見を述べていきます。
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フリン効果と「負のフリン効果」
ヒトのIQについては、過去に比べて上昇してきているとされる、いわゆる「フリン効果」が有名です。
「フリン効果」とは、ニュージーランドオタゴ大学のジェームズ・R・フリン教授が「人間のIQは年々上昇し続ける」と提唱。「1978年のIQは1932年に比べて13.8ポイント高くなっており、IQは、1年あたり0.3ポイント、10年ごとに3ポイント上昇している」と言われています。
IQが上昇する理由としては、食事の栄養価の増大、教育システムの確立、など様々な理由があげられています。
しかし、近年の研究結果では、「フリン効果」とは逆に、「年々、IQが低下する」という「負のフリン効果」が示されてもいます。
「IQが下がり始めている」理由
「IQが最近低下してきている」とされる主だった理由は、近代科学が、人間が物事を考える必要性を奪っている、というものです。
例えばですが、僕は、最近、漢字が書けなくなっています。
例えば、僕は、先日、「しりめつれつ」を漢字で書こうとして、「めつ」が思い浮かばず、思わずスマホで漢字変換しました(笑)。
暗算が苦手になった、というのも然り。テクノロジーが普及することで、人が頭を使わなくなって、その能力が退化するということは、あながち否定はできないと思います。
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僕は毎日、Chat-GPTやClaude3.5と会話し、彼らに色々なことを教えてもらっています。
このように、生成AIを使って、何でも生成AIが回答したり、実行できるようになると、ヒトは「問い」をAIにして、あとはAIにお任せになってしまいがちですよね。
YouTubeには「おすすめ」の機能がありながらも、見たい動画を検索してチャネル登録し、能動的にみる動画を選んで閲覧するのが基本です。
そんなYouTubeよりも、AIがお勧め動画を次から次に画面に表示させ、数十秒で見終えるTikTokの方が好まれるのも、「考えなくてもいいから楽」という「AIお任せ文化」がすでに始まっているからとも言えるでしょう。
もしAGIが登場したら
僕は、漢字を忘れる、暗算が苦手に、ついAI任せにしてしまう・・・といったこれらのことを、大きな問題とは感じていません。
ただ、この1年の生成AIの進化のスピードを鑑みると、10年以内には、強いAI=汎用人工知能(AGI)が誕生するでしょう。
そうなると話は別です。
今よりも、AIに任せられる仕事、任せた方がコスパのいい仕事が増えていき、やがてヒトの中には、AIに頼りすぎて、自己成長の機会を逃す人も出てくるでしょう。
AIに仕事を任せっきりになると、ヒトの就労意欲や学習意欲が低下し、人間の知識や技術が衰退する恐れがあります。もっというと、人間の存在意義や努力の目標が失われ、社会全体が停滞または退化する可能性も否定できません。
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映画「26世紀青年」にみるIQ低下社会
『26世紀青年』という映画をご存じですか?
2006年にアメリカ合衆国のマイク・ジャッジ監督により製作されたブラック・コメディです。日本では『26世紀青年』(原題:Idiocracy)というタイトルで、アマプラなどで動画配信されています。
2005年に、IQが平均以下の男性、主人公のジョーが冷凍保存実験のため、保存庫に入れられて、その後の事故で500年間放置され、500年後の2505年に目覚めます。
500年間でAIを頼る社会に変貌を遂げた結果、人類の知能が平均40以下と著しく低下していたため、ジョーは「世界で一番頭のいい人間」として扱われ、大統領になり活躍する、という実に「くだらない」映画です(笑)。
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まさに、AIでIQが低下した社会を描いていているのですが、そこで僕が一番印象的だったのは、AIにすべてを任せた結果、人間のIQが低下すると、どのような世界になるのか、ということでした。
この映画では、計算もろくにできない、論理思考能力もない人々が、AIにすべてを任せてほとんど仕事もせずに暮らしているのですが、どんなくだらないことでも笑える、ある意味「幸せな世界」が描かれていました。
AIが進化するとIQは低下する。だからといって、それは不幸なことではない、という世界観を描いた映画であり、知性を持つことは、ヒトを幸せにしているのか?を考えさせられます。
この作品は、単なるコメディとして笑えるだけでなく、現代社会への警鐘としても評価されていますが、ここに登場する人はすべて、「AIに使われる側」のヒトしかいませんでした。
来る未来がそうであれば、この映画が描くように、ヒトはある意味、幸せに生きられるかもしれません。
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強いAI登場における二極化社会
しかし僕は、この映画のような未来は予測していません。
強いAI=AGIが登場すると、僕は、以前からお話ししている通り、ヒトの二極化が、今以上に起きると確信しています。
AIを使いこなす人と、AIに使われる(AI任せに生きる)人、の二分化が起きるのであれば、そこには「人類みな無能」で平等、ではない、不平等社会が到来し、必ずしも誰もが幸せという訳にはならないでしょう。
以前書いた上記の記事をもう少し端的に補足するならば、二極化とは、
AIを使う側にいる人
AIに使われる側の人
に分かれるということです。
そして使う側の人が20%、使われる側の人が80%、そんな分布で存在するようになると思います。これはパレートの法則といって、世の中の自然の摂理からくる割合でもあります。
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グラフの左側がAIに使われる人で、右側がAIを使う人、というイメージですね。
そして、AIを使う側にいる人は、今のうちからAIを使って自分を効率化・最適化している人です。
AGIが登場してから焦って、AIを使いこなす人になろうにも、既にAIが自分のもつ能力を超えてしまっているので、使いこなす側になるのには、無理があります。
では、AIを使いこなす人とそうでない人は、どのようなイメージで捉えればいいのでしょうか?
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AIを使いこなす人と、そうでない人
例えば、生成AIを使って卒業論文を書くことの是非が議論されていますよね。
僕は、生成AIを使って書いた方がいいと思います。既に研究成果が発表されていることや、知識、データ、は生成AIに集めてもらって構わないでしょう。卒業論文での自分の思考や研究結果を述べることの意味は、その研究や思考の中身であり、それをどう表現するかが問題ではないと思うからです。
ただ、生成AI「だけ」で書けるような論文であるなら、そもそも論文としての価値を持たないと思った方がいい。それは、自分自身の考察や知恵や創造性はなく、一般論の寄せ集めでしかありません。
今の時代においては、生成AIに集めてもらったそれらを元に、自分にしかできない考察や研究、成果物の作成をすることのほうに意味があるし、それが、ヒトゆえの、AIではできない能力ではないでしょうか?
加えて、そうすることで、生成AIを使いこなす能力が格段に上がり、生成AIの上を行くことの経験も積めます。
それを否定する教育は、生成AI時代に、生成AIに使われる側の人を育てる教育になるのではないでしょうか?
生成AIを「パワードスーツ」に
生成AIを使いこなす人とそうでない人を、もっと単純化するならば、例えば、映画『アイアンマン』でパワードスーツを着た人と、素手で何も持たない人が戦うようなものです。
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パワードスーツを着ることで、身体能力はかさ上げされます。それによって、もしかしたら、さきに述べた、テクノロジーに頼った結果「漢字が書けなくなった」「暗算ができなくなった」というような、生身の身体に身についていた感覚、スキルは失われているのかもしれません。
しかし、「素手で訓練すべきだ。素手が一番だ!」と言って、パワードスーツを着た人と戦って勝てますか? そもそも戦うべきでしょうか? ということです。
それは極論と言われそうですが、要は生成AIの力をフルに活用したほうが、はるかに、知能の戦闘能力も上がるのではないでしょうか。
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AIに任せるられないこととは?
僕自身は、AI中山を開発した経験でも体感した通り、「AIでもできることはAIに任せ、僕は僕にしかできないことをする」ことで、自分の時間を作り、結果、仕事の生産性や、自身の創造力を高めています。
僕にしかできないこととは、例えば、この記事を書くことです。
「AI中山で書けるのではないですか?」とよく聞かれるのですが、はっきり言って書けません。
この記事1つとっても、各テーマは、日常でふと思いついたことが大半ですし、ブログをどのような構成で何を訴求するかは、生成AIに任せても平凡な内容になってしまいます。
要は、この記事は、僕の「ひらめき」=創造力で書いているわけで、このような創造性は、生成AIは持ちにくいのです。それは、生成AIは、人類の学習データの平均値を出す仕組みなので、ある意味当然です。
そのことを、ヒトの価値は創造性にあり、創造性とは、常識にとらわれない、エラー値であると以前記事に書きましたね。
今のうちから、生成AIを日々使い、空いた時間を創造する時間に当てることで、創造力に加えて、AIが持ちにくい、感情理解や倫理性などのEQ力を、身に着けていくことが、とても大切なことだと僕は思っています。
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知能拡張という考え方
僕が言いたいのは、生成AIを自分の知能の一部として身にまとったうえで、AIでは考えられない創造性という知性を身に着けることが、生成AI時代のヒトの思考の在り方ではないか、ということです。
つまり、生成AIを使いこなす人は、いわば、身体拡張ならぬ、知能拡張をしたヒトともいえます。
生成AIが持つ知識とその検索・引き出し・取り纏め能力に、自分がその能力を活用しながら獲得していく、さらなる知性や知恵を上積みした、拡張された知性をまとう人、いわば「知能拡張」された人間になるといことではないでしょうか。
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生成AIをいち早く、自分の脳の一部として取り込み、生成AIの機能をフル活用して、生成AIがカバーできない知力を脳に実装することで、アイアンマンがパワードスーツを纏うように、自分の脳の機能を拡張できます。
生成AIで自分の知能を拡張することが、今後ますます求められることであり、こうした機能拡張の概念を理解して、生成AIを自分のものにできる人が、二極化社会において、「AIを使う側の人」になれるのではないでしょうか。