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ワシ読む!浄土真宗「清沢満之(きよざわまんし)生涯と思想/東本願寺出版部/2004年」

ワシ読む!:取り上げた本の内容を掘り下げ、突っ込んだnote記事にアウトプットしています。本の本文を引用した部分には(P00)とページ数を記載しております。私見におつき合いいただければ嬉しいです。

● その本ざっくり

浄土真宗大谷派(東本願寺)の近代化に貢献した清沢満之(きよざわまんし)(1863~1903年)について書かれた本。貧しい家庭に生まれた満之ではあったがその学才を見込まれ、進学のチャンスを得る。周囲から将来を嘱望されていたにもかかわらず、進学のチャンスを与えてくれた真宗に対する恩義からか、大学卒業後は真宗の門に入る。身内葬儀の際にご住職からいただいた本であるが、なんとも難しそうなご本のたたずまいである、、、マニアックな真宗教学の話であれば寝てしまうが、一人の人間の壮絶な人生がドラマチックに描かれており、生きざまがせまってくるような内容!真宗の知識があれば楽しく読めますが、真宗知識が無い方へも伝わるようにnote記事をまとめてみたいと思います。

● note記事本文ここから

 (私たちは)真の豊かさを問うゆとりを見失い、物質的な欲望の充足を追い求めて日々奔走しているのではないか。(Pi)

真の豊かさと言われれば自分の周りの人間との信頼関係でしょうか、人は友を求めながら友を信ずることを知らない悲しい生き物ですね。

当時の真宗大谷派は、それまでの伝統を受け継ぎながらも、新しい時代にふさわしい宗派への脱皮を図らなければならないという強い危機感の中にありました。(P6)1873年には、国内でのキリスト教伝道が解禁され、その活動も活発に行われるようになっていました。(P7)(1894年日清戦争が勃発すると)僧侶や宗教は、いかに国家に役立つのかと問われ、非難にさらされます。「宗教は蒙昧(もうまい)時代の遺物に過ぎず」と福沢諭吉らなどによっても宗教は非難されていました。(P38)

われらが満之はこれには黙っておれず「宗教は死生の問題について安心立命(あんしんりつめい)せしむるものなり。」と主張し、宗教は人間がさらされる死と生の問題に安心を与えるものであることを表明し、宗教を捨てることができるなら死生の問題も捨てることができるのか、と世間を問いただしました。宗教の本質を理解せぬまま、宗教を見下す当時の近代啓蒙思想と戦
ったのです。

● 満之結核を病む

満之は結核を病み若くして亡くなってしまいますが、自身の避けられない死に向かいながら宗教的思想はいよいよ深まっていきます。

 1894年、当時の真宗教祖様が亡くなられた際、その葬儀のために寒風の中を十数時間も立ち続け、風邪患者を多数出した事から「大谷風邪」と世間では呼んだそうです。満之もこの時かかった風邪から結核を発病します。当時結核は不治の病です。

私の感冒(かんぼう)の放任というものは、なかなか甚だしかったです。およそ半ケ年、その放任の有様を申せば、当時ある一種の行者気取りでいたものですから、、また薬なんどは、一切用いるには及ばないという勢いでありました。(P33)

風邪(かんぼう)を半年も放置して薬も使わずに、苦しい修行に耐える修行者をきどっていたという、満之らしいエピソードですが、彼の病状を重くする事になってしまいます。

明治27(西暦1894)年の養痾(ようあ)に、人生に関する思想を一変しほぼ自力の迷情を翻転し得たりといえども、人事の興廃は、なお心頭を動かしてやまず。(P30)

満之はその日記に、病気の療養の日々(ようあ)の中で人生に関する思想を一変し、自分の力で成仏しようとする事をやめたと書いています。満之は39歳で没していますが(この時31歳)自らが不治の病を得てかえって、宗教的に開眼する所があったのではないでしょうか。ムチャな言い方をしますが、自分がまさに死なんとしている時に、自分の知性を捨てて信じれば必ず救ってやる、という教え(真宗)があった場合、「信じざるを得ない」となってしまうように思います。

 満之は「余が阿含を読誦して特に感の深かりしは喀血襲来の病床にありしがためか。しからば教法の妙味に達せんとせば生死厳頭(しょうじがんとう)の観に住することもっとも必要たるを知るべし」と記しました(P81)

阿含経を読んでみて特に深く感動したのだが、それは結核にかかり苦しんでいたからなのだろうか。宗教の真理にたどり着きたいのならば、生と死の極限の先端にいる事が必要だ、と記したというのです。

生死は全く不可思議なる他力の妙用によるものなり。しからば吾人(ごじん・われわれ)は生死に対して喜悲すべからず。生死なおしかり。いわんやその他の転変においておや。吾人はむしろ宇宙万化の内において彼の無限他力妙用を嘆賞せんのみ。(P94)

生死は不思議な力によって左右される。われわれは生死を喜んだり悲しんだりするべきでない。生死以外の物事の変化にも喜んだり悲しんだりするべきでない。われわれはその不思議な力に驚き・感心し・たたえるのみである。

● 諸行無常・諸法無我

諸行無常(しょぎょうむじょう)・諸法無我(しょほうむが)という事が仏教の本質的なキーワードとされるが、すべての物事は移り変わるし、すべての物事にはからいは無い、という意味です。あなたの愛する子供が病気で死んでも、生きている以上は必ず死ぬのだし、すべての物事は移り変わる原理にのっとって死がおとずれたのだから、死をことさらに悲しむべきではない、そういう冷徹なとらえかた、死をありのままに受け止めようとする態度が、仏教の本質なのだと思います。

この知性では理解できない不思議な力、なにか偉大なるもの(サムシンググレート)が人間をときに幸福にしたり、不幸のどん底におとしめたりしている。このなにか偉大なるものを、「天」と言ったり「宿命」「宇宙」「サムシンググレート」「如来」「他力」などと、人類の有史以来色々と表現してきた、というのが私の理解です。

 どうも人生の意義について研究せずには居られないことになり、その研究がついに人生の意義は不可解であるというところに到達して、ここに如来を信ずるということを惹起(じゃっき)したのであります。(P145)

「人生の意義について研究したけど、人生の意義は解明不可能という結論が出たので、阿弥陀如来を信じることにしました(笑)」ちょっとどうしたん、と突っ込みたくなる満之の告白ですが、真宗の人はこうしたすなおなが方が多いようですね。考えに考え抜いてもわからない、不可思議だ(思議する事ができない)、まさに刀折れ矢尽きた後に信じるという事が出てくる。医者は精妙なる人体の仕組みを知れば知るほど、その不可思議さに神の存在を信じるようになると言いますが、満之のこの告白にも似ていますね。

 後に清沢満之門下の曽我量深(そがりょうじん)が、法蔵菩薩の探究に生涯をかけて、「如来我となりて我をすくいたまう」と尋ね当てたのも、、、(P144)

自分を救ってくれる存在である如来と、救われる側の自分が一体になっているという量深の言葉ですが、これはどうした事でしょう?

人間の知性を超えた不思議な力を真宗では「如来」と表現するのですが、仏教を信じるつもりの無い人に「如来」を信じよと言っても眉をしかめられますし「如来」を信じよと言ってもキリスト教徒には受け入れられないでしょう。なにか偉大なるものの存在を言葉で表現したいのだけれども、表現したとたんにそれは、表現しようとしたものとは異なる存在となってしまう、ジレンマがあります。

「如来」を人間を超えた不思議な力、この世界全体を覆いつくす存在として、「宇宙」と言い換えても良いように思います。「如来と自分とは一体である」が「宇宙と自分とは一体である」と言い変えると現代人にも伝わるのではないでしょうか。もし自分が宇宙と一体になれたのならば、自己の苦悩・不幸・不運などというちっぽけなものは、たちまちに消え去ってしまうでしょう。

● 結論

自分が宇宙と一体になり、絶対の安心を得る、というのが仏教(真宗)の神髄なのだと思うのです。


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