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遺された人


    その日、末期癌だと告げられた。
    めずらしくもない病名なのに信じられなくて実感が湧かなかった。
    自分の身に突如降りそそがれた不幸を直視できるほど、俺は偉くも強くもなかった。
    病院のロビーで辛気臭い顔で、俺は普段どおりの日常の繰り返し。
    そもそも生きることが辛いのに、いまさら死ぬことなんて怖くはなかった。

「涙が・・・」

    手にはハンカチ。
    それを俺に差しだしている女性が言った。
「君も此処に死にに来れば解るよ」

    絶望ってやつが。

「見舞いをするにも覚悟がいるのよ。
    相手を見送らなければいけないから」
「御免だよ。
   俺に同情はいらないし、そんな家族も俺にはない」
「そっ、奇遇ね。
   あたしも。
   家族なんて、いないのよ」
   と、彼女は俺の頬に流れるものを拭って言った。

   leave     behind      human.

    朝焼けにさえも憎悪する。
    痛みに微動だにできない日々でさえ、衝動的な悪意に心を塗りこんでしまう。それを抑える術を知らないし、そんな意志も俺にはなかった。

    ただ、全てを忘れたかった。

    過去も未来も現在すらない。

    俺は、とにかく嘔吐した。
    誰も構う者もいない。

    生も死も俺にとっては苦痛でしかない。

    すでに、すべてを失っているから。
    いや、そもそも俺には何もなかった。
    朝も昼も夜もない。
   仕事も友人も俺にはない。
   そして、時間もなくなって、動くことは疎か、呼吸をする事さえも制限されるようになる。
    俺は人類に不要な御荷物なんだ。
「いつ死ねますか」
「それは自分で選ぶような事ではありません」
「自分で選ばないで、いったい誰に決めさせるんだ」

    ふるぼけた下宿宿を住まいに俺は酒を飲んで毎日を無闇にやり過ごしていた。
    毎日の食い扶持に困ることだってあったさ。
    でも、俺は映画を観て音楽を聴き本を読んではゲームもやった。
    家族に疎まれている事は幼い頃から気づいていた。
    だから、すべてを捨てて故郷は捨てた。
    もちろん後悔する日もなくはないが、自分は所詮この程度、それが自分で解っ たから、俺は自分の死にさえも冷静でいられる。
    そう心を上書きする事にした。

「死ぬのが怖いのね」
「死ぬことが怖くはない。
死を考えさせられるのが怖いんだ」

    故郷で母は喘息を患っていた。
    発作がおきると手を握りしめて背中をさすった。
    その発作が落ち着くまで。
    その役は自分の役割だったが怖かった。
    母の命が手の中で消えてしまうのではと、ガラス細工で出来た薔薇の花びらの様に繊細で、粉々になってしまえば復元ができない、その存在を支えているのが自分だという恐怖にいつも、逃げだしてしまいたかったんだ。

「怯えないで。
   人は寄り添いあえるもの」
「そんなものは俺にない」

    俺は皮膚病を患っている。
    だから家族のお荷物だった。
    父は頑張っていたのだと思う。
    それが理解できていたから、食べ物がない飢餓感には耐えられた。

    ただ死を考える事の恐怖は拭えなかった。

    貧しい家庭の母は文字が読めなかった。
    だから自分で物語を考えて聞かせてくれた。
    俺は、それをイメージして絵を描いた。

    画家になろうと思ったのは、それが動機だ。

    父親は稼業の大工を継がせようと考えていた。
    でも、それは出来なかった。
    俺には学力が足りていなかったから、資格を取る事が出来なかった。
    しかし父は、俺が堅実な仕事を拒んでいると決めてかかった。
    それで拗れて家を出たんだ。

    金は全然ないけれど、故郷を離れてからはパートをしながら、街で観光客の似顔絵を描いて生計をたてた。
    受験勉強からも田舎の窮屈さからも解放されて自由になったと錯覚した。

    実際は逃げただけなのに。

    そのかわり新しい事をはじめて、世の中にあるモノを超えていかなければいけないという使命にかられた。

    しかし、いっこうに生活は楽にならないんだ。

「好きな事をするのが仕事だと思っているから、好きな事が出来る状況が一番いいんだ」
「そうかしら。
    理想を追い求めるよりも他人にも理解してもらえるよう努力してみたらいいのに」

    女がずっと俺の傍にいた。
    俺みたいな人間と一緒にいるには不似合いな美人だったが、数日後には彼女の装いは質素になって、化粧さえもしなくなっていた。
    彼女は群れるのが嫌いだと言っていた。
    友達もいないと言っている。
    ただ彼女は自分の価値観を大切に思っていて、それを誇りに生きていた。

「ねえ、画を描いてみせてよ。
   あなたの画が見てみたいの」

    女は自分の事をミューズだと名乗っていた。

    芸術の女神だと。

    しかし、俺には現実感のない存在で、幻のような女だった 。

    トンネルの中に呼びこんだ彼女はペンキを用意していた。
    画を描いて欲しいのと、 だから二人で落書きをした。
    無闇に法則のない悪業の記しだよ。

    それは鳳凰の画だったんだ。

「やがて千年くらい時代が過ぎてもヤッパリ残り続けていてくれたらな。
   人類がたとえ滅んでも次の種族が受け継ぐくらいの」
「だったら数億年は必要だよ」
「永遠に刻み込んで残せたら、どんなに幸せな事かと思ってしまうの」

    彼女は、そんな夢のような事ばかり言っていた。

    そんな彼女は時間があると俺のアトリエにやってきていた。
    恋愛感情はないとは言っていたが、俺にとっても気になる存在になっていた。

    自分を異形だと思っている俺にはとても、彼女を愛してはいけないのだという足枷があるような気がしていた。

「世の中には赤の他人が一杯なの。
    名前も解らないような赤の他人ばかりなの。
    でも、私の世界を破壊していく。
    苦痛もやがて慣性となって、苦痛を苦痛とも感じなくなってしまう頃には手遅れだなって思うのよ。
    あらがうことも出来ず、癒す術も見つからないほど心はズタズタ。
    蝕まれていたことに狂気して愕然とする。
    世間は、私にとって鋭利なナイフを壁中に敷きつめられて地雷原を無理矢理に歩かせるようなものなのよ。
    やがて記憶と一緒に思い出さえもなくなるわ。
    だけど、魂はなくしたくなくって、私のエゴは足掻いているのよ」

    彼女は俺にとってエニグマだった。
    それは今も変わらない。

    彼女が亡くなった今となっても。

    彼女も不治の病におかされていて、余命を宣告されていたのだという。

    アトリエで彼女が発作を起こしたとき、その姿が、俺の母親と重なって、病院に電話した後、俺は其処から逃げ出した。

    彼女の苦しむ姿を見ていたくなかったからだ。

    夢だよ。
    こんなことは悪い夢なんだ。
    現実逃避して、自分の脳髄に虚偽の申告を送りつける。

    からっぽの頭の中、無意味な言葉だけがグルグルと空回りをつづけていた。

    その後、病状が悪化し窶れ細った俺は病院での生活を余儀なくされていた。

    窓際で両手を窓に押しつけて外を見たら、彼女が其処で待っていてくれるような気になった。
    俺は何日も落ち込んでいる。

「病院で彼女の事を聞いたんだ。
    不思議な話だが、俺は彼女の本名さえ知らなかった。
    自分の事に精一杯で彼女が病気だなんて思いもしなかったんだ。
    自分の身体が不自由になっていくから、彼女は俺に願いを託していたのかもしれない。
    今となっては後悔しかないのだが、彼女は身勝手な俺に優しかったんだ。
    その死の瞬間にさえ何も出来ずにいた俺なんかに」

    時間は容赦なく過ぎ去っていく。
    滅びさった過去は何一つ抵抗できず、無情なままに流されていった。

「彼女が亡くなって得たものといえば、卑怯な弱さの確認だけだ」

    親や故郷、家族に仕事。
    生活さえも。
    あらゆる苦悩の一部であった。
    そして苦悩からの逃走。
    結局、ナニモノからも逃れられないと悟った時に男は死んだ。

    彼らのトンネルの落書きも直ぐに塗りつぶされて消されてしまった。

    男は死の寸前に布団に潜り込むとミューズの夢を見たと譫言をいった。

「彼女に苦痛の影はなかった。
   
    ずっと楽しそうだった。

    笑って、幸せそうだった」

    と彼の眠る棺には、彼の描いた彼女の似顔絵がいれられていた。

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