微笑みを取り戻すために
乱雑な部屋は、みわたすほどに目眩がした。
怠惰なあたしは、仕事をおえてアパートにかえると、まず衣服を脱ぎちらして毛布にくるまり、コンビニで買ったオカシを頬張っては、常に外部接続のテレビをつけて一時期流行した泣ける映画を見ながら創作した。
人には感情なんてものがある。
そもそも言葉は、それを伝達する手段であって、絵画も、それと類を同じくしたものである。
あたしは、あたしを包んでくれている毛布の感触が好きだ。
創作中は手放すことがない。
まるでライナスだと自分をおもった。
そして、気がつけば夜は白味はじめてくる。
夢の終わりに触発されて、あたしは鉛の筆をおいた。
目の前にある両手いっぱいのキャンパスは、もう白いだけの平面ではなくなっていた。 あたしの夢を吸いこんで、一人の童女と無限の海を描きだしていた。
でも・・・
あたしは未完成な絵に不服を抱きながらも、横たわると目蓋をおとした。
そして、呪文のように何度も・・・
「今はこれでいいのよ。
いつかは、あたしにも、それが叶う日がやってくるから」
呪文のようにくりかえして、その精神を眠りの渦へとゆだねていった。
Living in a false scene
すべての感覚が混乱する。
あたしは幻覚のなかで、ただひとつの扉を探していた。
そのドアノブひねろうと手を伸ばしたとき、ハッとした。
あたしの周りには、誰も知っている人がいないのだ。
幻覚のなかで、いくつものドアノブをまわし、いくつもの扉をさがしてまわった。
けれど、どこにも自分の知っている者はいない。
自分を知ってくれている人はいない。
いずれ、あたしは望みを失い、もうどんな、ほんの些細な謎を解く鍵もないのだと、諦めて項垂れるしかなかったのだ。
あの丘の上にのぼっていけば、見わたす世界に光りが灯されるのではないかと戯言を、虚像に埋もれて墜ちていくあたしは考えていた。
それは見せかけの景色にいるあたしが見た幻に過ぎなかったのかもしれない。
虚像と偽りの風景で、あたしは絵画をしている。
今日も、明日も、それからも。
あたしは夢を捨ててきた。
あの人の眠るあの場所に。
あのひと?
あたしは、まだ、あなたの気持ちがわからない。
だのに、束の間の光景に魅了され恋をした?
これを虚飾と疑い、なぜ、あたしがあなたを愛したのか解らないというのなら、それはそうなのかもしれない。
まだ、あなたの中にある心理の扉に辿りつく事ができないのね。
それは、あたしが欲望に塗れて、勇気や愛や真実を絵空事として手放してしまったから。
愛しているから逢いたいは、あたしの願望。
あなたが求めてくれる訳ではない。
無闇に時は経過する。
そうしてまた、一日が終わりを告げていく。
「そんなに耐えがたいものなのかい?」
苦痛。
どんなに手を伸ばしても、そこには、とうてい届かなかった。
どんなに想い描いても、それがキャンパスに描かれることは決してなかった。
どんなに創作をかさねても、あたしという枠からでることはできなかった。
窮屈な自我に取りこまれ、あたしは恍惚とトランスに溶けこんでいった。
「耐えがたいわね」
ゆるやかな曲線を何度も積みあげて女を描いた。
それは自分の姿に似ていたがため嫌悪した。
「たとえるなれば宇宙人につかまって改造手術をうけるようなものね」
「よくわからないけど?」
「悲惨っていうことさ」
恋をすると心が一杯になって、その人のことしか考えられなくなるのだけど、あたしがずっと見つづけているあの人は、あたしと向かい合おうとする意思がない。ジレンマという苛立ちの葛藤に心を食いつくされて、浅ましい獣の衝動に身をゆだねたいと、重い鉛を、いくつも腹に埋めこんでいるうちに、あたしは生きる希望をなくしてしまった。
作業的な仕事に身をやつしていると、閉鎖的な感傷でノイローゼになる。そのくせ世間は同じ毎日の繰りかえしで、進歩と発展に富まない日常をうけいれて、変わらぬ世界観に生きている。それは、スゴイと思うのだけど、その日暮らしに創作にうちこんでいるあたしなんかは変で、世界が一瞬でひっくりかえることなんかザラで、それこそ、その人のことを好きになってからは、まるっきりちがう空気の感触に取りこまれてしまっていた。
「リベル・ナハト教の教祖がなぜ自殺をしたのか知ってる?」
「リベル・ナハト教って何さ?」
「超越精神理論だよ」
「あたし、しんない。
あたし、んなの興味ない」
何かに脈絡があると思うのは間違いで、毎日は不規則な助動詞の集合体だ。
「つまり、処世術なんだよね。
眼を反らしたり、笑って誤魔化したりとかさ。ほらっ、嘘つくのとかもだけど、言い逃れを分割したものじゃない? でっ、言い逃ればかりしているその人のことを愛す気が解らないわけよ。
ねぇ、それって顔とか体目当てなの?」
「・・・なんでだろう」
自分でも解釈のきいたことじゃない。
なぜ、その人じゃないとダメなのか、でも・・・
「まっ、好きってのは、そういうのもひっくるめて、そうなんだと思うけど」
あたしには、その人が、あたしのことをよく思ってくれてはいないことに気づいてもいた。
むしろ、嫌われていることにも。
毛嫌いされてしまった発端は、その人が、あたしを拒絶しつづけていたからで、それに解釈を求めることはできないのだが。
バスルームにはフレグランスミント、シャワーの感覚は気怠くて嫌い、泡の匂いなら好きになれた。
夕べみた夢のつづきが思い出せない。
そもそも、あの夢につづきがあったのか思い出せない。
朝、目覚めると、やけに心臓がバクバクと脈動していることに気がついた。
記憶のなかのあの人は、いつも優しく微笑んでいてくれた筈なのに、その夜、夢の幻で誘うその人は違って、不気味に不自然な笑いを不器用にして、あたしを嘲笑っていたんだ。
「ひっでー夢だ」
すべての感覚が混乱したその世界で、あたしは幻覚のなかで、ただひとつのドアを探していた。
そして、最後のドアノブに手をかけて、その扉をひらいたとき、そこには一面の雪景色が、キャンパスいっぱいに広がっていて、仲良くベンチに身をよせあっている二つの影は、あたしとその人を模写したものだった。
「現実は、そんなに甘くはないのに・・・」
あたしは何かに取り憑かれたように、その魅力にとりこまれていた。
・・・なんだろう。
溢れてくる涙、流動的な感情に、ああ、ここが自分にとっての、本当の安住の地だったのだなと本能で、理解できたんだ。
「もう平気?」
「んにゃ、まだ・・・」
「キスしたら忘れてくれる?」
「なにさ、それ?」
「おしえたげない」
「わけわかんない」
「だって、言ったら笑うんじゃない?」
「そんなことないよ」
「じゃ、教えたげる」
「ほんとに?」
「うん、ほんとだよ。
それはね・・・」
その人が通りすぎる車の中で、みしらぬ誰かとキスしているのを見た。
あたしは孤独に嘖まされ、嘔吐した。
あたしのすべては、その人のためにあったのに、それが受けいられることがないと知ったから。
「しあわせ?」
「それは、あたしが訊きたいよ」
もう、ほんの些細な謎を解く鍵もない。
欠けたピースは、当てはまらない。
どこにいっても自分は一人きり。
白いキャンパスの雪景色をみながら、あたしは泣いていた。
「それも、そうか」
あたしは、その人を想っていた。
「泣ける筈だよ」
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