大混乱の中東 Part 4
こんにちは。Naokiです。
これまでアフガニスタンとパキスタンの地で起こった紛争についてまとめてきました。今回は同時進行で起こっていた他の中東諸国での混乱についてまとめます。
湾岸戦争 序章
アメリカやロシアなどの大国が及ぼす影響は大きいということはこれまでのお話で明らかですが、逆に大国による監視が無くなると秩序がなくなるということもあります。親の目から離れた隙にイタズラをする子どもたちと同じですね。ペルシャ湾に面する国々でも同じようなことが起きてしまいました。それが湾岸危機です。
世界各地で様々な国が代理となって対立した、東西冷戦が1989年に終結しました。その冷戦終了宣言はマルタ島で行われ、世界に平和が訪れるかと思いきや、訪れませんでした。冷戦終了後、突然イラクは隣国クウェートに侵攻しました。なぜか。今のトルコの前身ともいえるオスマン帝国が湾岸地域を征服していたとき、クウェートはイラクに属していました。そのオスマン帝国が崩壊した後、そこを占領したイギリスが勝手にイラクからクウェート州を分離させ、独立させてしまいます。イラクとクウェートには油田が豊富にありますが、クウェートの方がたくさん石油が出ました。もともとイラクのものだったクウェートという理由もあり、いつかクウェートを自分のものに取り戻したいと当時のイラクの大統領、フセインは考えていました。そんな中、冷戦が終わり、ソ連が弱体化し、アメリカも中東への関心がなくなりました。イラクにとっては大国の監視が無くなった今がチャンスと考え、クウェートの油田獲得のため、クウェートに攻め込みました。
アメリカが再び介入 湾岸戦争へ
1991年、当時の大統領、ブッシュ(オバマの前の大統領のブッシュではなく、そのお父さん)はイラクへの攻撃を開始しました。これが湾岸戦争のはじまりです。ブッシュはアメリカ軍だけでイラクに侵攻せず、クウェート周辺のアラブ諸国に声をかけて、アラブ連合軍をアメリカ主導で結成し、イラクと対抗しました。なぜ仲間のイギリスやフランスなどの国と協力しなかったのか。
アメリカはキリスト教の国である一方、クウェートをはじめ多くの湾岸諸国はイスラム教の国がほとんどです。仮にアメリカ、イギリス、フランスなどともにイラクへ侵攻してしまうと、キリスト教VSイスラム教という対立が生まれてしまいます。かつてキリスト教は十字軍というグループを結成し、キリスト教の聖地奪還を目標に、イスラム勢力と対抗した歴史があります。このキリスト教とイスラム教という対立構図は、イスラム教徒がキリスト教徒への憎悪を増幅させる恐れがあると考えられていました。欧米諸国がイラクと戦えば、イラクと同じイスラム圏の国々も黙っていくことができず、ソ連 VS アフガニスタンのような宗教対立となり、勝つことはできないとブッシュは考えたのです。だからブッシュはキリスト教の国ではなく、イスラム教の国に対して「同じイスラム教の国イラクがやっていることはとてもじゃないけど許せないよね。アメリカと協力して戦わない?」と声をかけ、アラブ連合軍を結成しました。こうしてイラク VS アメリカの湾岸戦争へとすすみました。
アメリカがサウジアラビアに進駐した
湾岸戦争で密かにビクビク怯えていた国がありました。イラクと隣接する国サウジアラビアです。「自分たちもいずれイラクに攻撃される」と危機感を持っていました。サウジアラビアはイスラム教スンニ派、一方イラクはシーア派で昔から対立していた2国だったのでこれを気にイラクが攻め込んでくるのではないかとサウジは思ったのでした。そこでサウジアラビアの国王はアメリカに助けを求めました。なぜアメリカに助けを求めたのか。それはサウジアラビアの石油をアメリカが買ってくれて、その対価で最新鋭の兵器などを購入しており、親しい関係だったからです。サウジアラビアの要請にアメリカは快く応じ、サウジアラビアに進駐を開始しました。
オサマ・ビンラディン 国外追放される
これに猛反発した人物がいました。それが、オサマ・ビンラディンでした。サウジアラビアはイスラム教の始祖ムハンマドゆかりの地がいくつも点在する、イスラム教の聖地でもあり、そこに異教徒であるアメリカが入ってくることが、ビンラディンは許せなかったのです。実際にアメリカ軍がサウジアラビアに進駐してからは、サウジアラビアのいたるところには、兵士が飲酒したり(イスラムでは神のことを考えなくなるとしてアルコールの摂取は禁じられています。)、女性兵士は短パンで歩き回る(露出が覆いと男性が誘惑され、神のことを考えなくなってしまうので過度な露出は禁止されています)など、アメリカ兵士による、イスラムの教えを侮辱するような行動が目立つようになりました。そんな国内の様子を見たビンラディンは、サウジアラビアの国王に対して、自分たちだけでイラクからの侵攻に備えるから、アメリカ軍を撤退させてくれと何度も要請しました。ビンラディンはお金持ちのボンボンの出自だったのでポケットマネーで攻撃に備えることは実際可能でした。しかし国王は、アメリカ軍に頼らないとイラクの侵攻に耐えることは不可能だと判断し、ビンラディンの要請を却下しました。これに対し、ビンラディンは国王を猛烈に批判しました。サウジアラビアはサウード家の独裁国家です。国王を批判すると何が起きるか。北朝鮮を見ればわかることですが、ビンラディンは国籍剥奪と国外追放になってしましました。何もかも失ってしまったビンラディンとその仲間たちは同じイスラム教の国アフリカのスーダンに一旦逃げました。しかしアメリカがスーダンに圧力をかけ、ビンラディンがスーダンに滞在することができなくなりました。自国に戻ることもできない彼らが向かった先は、かつて自分が戦っていたアフガニスタンでした。そんな中、湾岸戦争はアメリカをはじめ連合軍がクウェートからイラクを追放することができ、終結しました。しかしビンラディンの中に、アメリカに対して憎しみの感情が込み上げてきたのです。
オサマ・ビンラディンが多くの人間を殺害したことは間違いのないことです。全く擁護するつもりはないですが、アメリカなどの、いわゆるビンラディンの敵国から発信するニュースばかりを聞いていると、単なる悪者というイメージしかつくことができません。国際情勢では、一旦テロリスト側の論理を考えることが非常に重要なことだと思います。たとえ理解できなくても、なぜテロリストが生まれたのか、なぜ罪のない人を殺すのかを”知る”ことが、本当の国際理解なのではないでしょうか。
次回、引き続き、ビンラディンのその後の動きについてまとめます。