2時間でつづる『わたてん劇場版』ネタバレ感想
備忘録です。
今日は朝7時に起きてアニメ『私に天使が舞い降りた!』全話一気見して、その勢いで劇場行って『~ プレシャス・フレンズ』を観てきました。
原作漫画はすでに読んでいるのですがプレシャス・フレンズはアニオリだからというのと、偶然にもタダでもらったニコニコのプレミアム会員90日チケットの期間でアニメわたてんが全部見られたのがあり、いっそ一日の4分の1をわたてん漬けにしてしまえと思い実行に移しました。
アニメはただ笑いながら起こっている事象を素直に受け止めるぐらいで楽しめたのですが、映画となると1時間の中に構成がしっかりと練られていて、作品自体を深く考えながら鑑賞することができました。
この学びをなおざりにするわけにはいかないと感じたので、2時間(目を開けていられる限界)で書けるだけの感想を全部残しておこうと思います。
このブログの読者層にこれからわたてんの映画を見に行こうと思っている人などいないと思うのでとくに意味はないですが、ネタバレしかしませんので要注意してください。
全体の感想
この映画のテーマは「喪失への抵抗」ならびに正反対といえる「永遠の獲得」であると捉えた。
その構造が前者では「花婆→花」「花→髪飾り」、後者では「花婆⇔まち」∽「花⇔みやこ」および「『友達と過ごす日々』のモチーフとしての髪飾り(ゆえに喪失を抵抗する)」というかたちで示されていた。
百合において相似は基本であるが、「永遠」の証明として「花婆⇔まち」という半世紀以上の長い時を経た者たちの実在する関係を持ってきたのが熱かった。その精神は花の髪飾りに託され継承される。
この作品は明確に「花⇔みやこ」「ひなた⇔乃愛」「小依⇔夏音」の3組の百合を軸に置いて展開されているが、映画ではとくにそれぞれの関係を絞って描写しようという姿勢が見えた。
そして乃愛が、少なくとも自身の「ひなた⇔乃愛」関係のことを明確に「恋」と認識していたのが印象的だった。乃愛の妄想の中でのイケメン強化ひなたを見て乃愛もとうとうここまで来たかと思った。
また最後の川のシーンにおける花・みやこの二人に対する乃愛の視線が、彼女だけが「花⇔みやこ」もまた「恋」の類いであると認識していることを示唆している。
つまり乃愛以外は百合とよばれるものを“深い友情”として処理しているが、彼女だけはみやこが感じた「もにょ」をはっきり「トゥンク」と捉え、恋心の芽生えとして把握している。(アニメ最終話の劇中劇で天使花が恋をしたのが村人乃愛の「おばあちゃん」と示されていることから、女性同士の恋愛関係は成り立つことが常識にはなっているようだが)
旅の中で松本がいっさい正体を明かさなかったのはとてもよかった。この作品のキャラクターとしては欠かせない存在だが、今作の趣旨的には出てきてはいけないからだ。なぜなら松本は勝手に「永遠」側に属している。チートだから。
シーンごとの感想
出発するまで
いたってふつうのわたてん。
夏音がコスプレさせられてて草。みやこやり手だな。むしろ夏音が優しいのか。この後ももう一回するし。今作見て夏音ちゃんが一番と一瞬思いかけた(私は姫坂乃愛ちゃんが世界でいちばんカワイイと思っており乃愛ちゃんがカワイイと思いすぎているのでむしろ自分自身が姫坂乃愛なんじゃないかと疑っている)。
この時の花のみやこへの視線は心配から来ていたことが後にわかる。旅行をするという提案に「おばあちゃん家」と付け加えたのは自分であり、それゆえに旅行嫌いのみやこを連れていくことに責任を感じていた。この気持ちが最後まで花をみやこに付き添わせる。
ひなたと乃愛の風呂to風呂のコミュニケーションは素直にうらやましいと思った。
1日目
ラフティングで写真を撮ってるあれはいったいだれなんですかねえ……。
だって一同じゃないボートが通った時(小依と夏音が手を振った時)は同じ場所にいませんでしたよねえ……。
最初のサブストーリーとして花婆の嘘が描かれる。(実のところ花婆の名前を忘れた)
花婆が聞いていた情報どおり、みやこが強キャラだった。
料理も衣装もめちゃくちゃに作れる。それを一瞬でわからせられた花婆に同情。
「タルトを手作りされたというので薄力粉があるかと……」
強すぎる。「また私なにかやっちゃいました?」感がすごい。
花婆がついたのは花を「喪失」すること=みやこから「奪取」されることに抵抗するための自己保身のための嘘であり、現実においては一巻の終わりですべての人からすべての信頼を失う行為であるが、この女子小学生たちは風呂の中で「おばあちゃん面白い」「おばあちゃんかわいい」と評価していたのが感心を通り越して恐怖だった。小学生ゆえの純真さなのか、生得的にえげつなく器が広いのか。事実そういう女子小学生がみやこの周りを囲んでいるからこそこの作品は歪みなく成り立つといえる、しかもみやこは才能に溢れているし性格もめちゃくちゃいいのでおかしも衣装も作れないで無生産のままずっとニート活動してただけのただのカスである俺に未来はない。
2日目
小依がやっと自発的に夏音の役に立てておじさんは感動しました。
みやこと花の二人きりの場面。
地元であるからには旅の責任者として自身がみやこを見守ろうという責務を抱いている。
旅に不慣れ(これをふだん履かないビーチサンダルの靴擦れで示したのは美しいと感じた)かつ女子小学生の引率で疲労困憊のみやこが花にもたれかかるシーンはみやこが唯一「心を許せる」相手としての花を大いに示していますが、まさかこのシーンが最後にいい感じで連携してくるとは……。
今作の醍醐味である祭り会場での髪飾り捜索。
「その」髪飾りには代替がなく、それを失うことはもっと大きなもの(=永遠)を喪失することである、と花からもらった髪飾りを持っていくことすらしなかったみやこが一番、花の必死の想いを理解している。
その想いに駆られたみやこは見知らぬ人に片っ端から髪飾りのことを聞くまでに猛進する。靴擦れの痛みも超え、力を尽くして花の想いを守ろうとする。花もそのみやこの別人のような姿になみなみならぬ覚悟を感じる。
挿入歌とともにこれまでの二人の“想い出”=永遠に至る軌跡が蘇りながら、無事に髪飾りを見つけ=永遠の権利を二人で(主にみやこが)取り戻し、二人は川下に行く。
そして二人は永遠を確信する。同じ川沿いで花婆がまちにしてもらったように、花はみやこに髪飾りを着けてもらう(儀式)。その瞬間に蛍の光が一斉に輝くが、これが祭りで行われた灯篭流しの再現であることは明白である。
今回の舞台は埼玉県の長瀞町であり、つまりこの「お祭り」とは「長瀞船玉まつり」である。「約1,000基の灯篭流し」や「ちょうちんをつけた船」はこのまつりの代名詞だという。二人は儀式を行い、花婆とまちの二人が息づくこの町に祝福されたのであった。(そう考えると「まち」という名前もだいぶ示唆に富んでいるように思われる)
よって、今作の最大のテーマはこの「みやこ⇔花」という関係になにかしらの「契り」を結ばせることであったといえる。この契りが、実在の「歳の差百合」が行った方式をなぞるという、継承儀式によってなされ、“土着的に”承認された。
みやこから花への愛は決してロリコンによる一方的な倒錯ではなく、アニメ10話で結ばれた「写真⇔お菓子」のギブアンドテイク契約から始まりながら、それ以上、みやこが花のため「だけ」に髪飾りを捜索したように、「自分が得るモノ」以上に「相手が抱く気持ち」のために尽くす、という一歩進んだ関係を二人が開き始めたことを意味している。二人は互いにとって、より対等に、かつもっと「プレシャス」な存在になれたのだ。
ラストシーン
そして今度は花がみやこにもたれかかる。
二人は互いに「もたれかけられる関係」になったのである。
それが永遠に続いていくことを、花の頭の髪飾りが保証している。
エンドロール
自撮りから始まりながら次第に明らかに6人では撮りえない写真が連発してまあそうだろうなとは思っていたが、最後の数枚で思わず笑い声出かけた。
この映画ホラーなのかよ。
スクリーンを通してニヤニヤ見ている俺たちの風刺かよ、松本は。
気になった点
・乃愛がガッツリ妄想女子として描写されていることは引っかかった。原作でもそうだったっけ? まあ中学生になったらそうなるの見え見えなんでいいですけど。
・映画だけの話ではないが、乃愛母エミリーが典型的外国人キャラ日本語なのはステレオタイプすぎないかと思う。全然ふつうにしゃべるでしょ。日本語学んだら。
どうでもいいこと
・わたてんの舞台って多摩市桜ケ丘なんですね。めちゃくちゃピューロランド行ってそうですけど。サンリオコラボもやったしね。私は初日にアトレ秋葉原に行きましたがグッズの値段にチキって買えませんでした。
・まだどの百合も「プレシャス・フレンズ」なのである。「フレンズ」では語り及ばなくなったとき、彼女たちはどうするのか、どうなるのか。「知る者」乃愛はいつ動くのか。
ごちうさのココチノは「ディア・マイ・シスター」を超えないことが確定しているが、わたてんの連載雑誌は『百合姫』であるから、このまま、「フレンズ」のままではいられないだろう。それが長いこと長いこと焦らしてきた作品の醍醐味なので、みんな引き続き原作漫画を追おう。
追記
あっ花婆が花のおばあちゃんってことは花婆男の人と結婚してるぅ!!!!!
うえーん受け止めきれない……百合の間に男が挟まってるよお……でもその男がいなかったら今の花ちゃん生まれてないから感謝するしかないね……
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