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日記 (『脆弱』)

わたしは最近、人に触発されて、日記を書き始めました。Twitterに長文(といっても、せいぜい140字×n個分 でしかない文)を書き連ねるよりも、よっぽど健康的。と思いきや、自分の内面と向き合う時間を毎日多めに確保すると、それはそれで不健康な気分になっていくので、難しいものですね。

日記はSNSの場では公開しない、それゆえ人目をはばからず自由に書く、というつもりでいたが、普段のnoteのように、自由に書いてるつもりでも奥底では体裁と格好と人目を気にする文章を書きたい日が、それを「日記」とカウントする日があってもいいだろうとも思い直した。その結果、今日の分は、Twitterの文ともnoteの文とも日記の文とも形容しがたい、趣向の違う作品が出来上がったように感じる。

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(2023.12.23)

あまり日記を書くような気分ではないが、頭に渦巻いてる暗い思考はたくさんある。どっちかというとTwitterに投稿したい。断片的に、書いてみようと思う。

「1Q84」を知らなくて笑われたので、ひどく、恥をかかされたと思った。わたしはやはりもっと本を読まなければいけないと思った。朝井リョウの本を1週間弱で2冊読んで、演劇も昨日観に行ったら、自分の心のパンドラの箱みたいな、気もち悪い部分というか、トラウマティックな傷や、あるいは、人というものにどんどん過敏になって、ありえないぐらい、今、神経が逆立っている。

それだけ人の心を揺さぶる名作、大きな意味のある読書時間だったという点ではよいことかもしれないが、本を読んだり、映画や劇などの芸術鑑賞をする度にいちいちこれでは、かなわない。日常がままならない。

私はたいていの本などに興味がわきづらく、読むのをやめてしまうのだが、朝井リョウの本はむさぼるように読んだ。クスリのようだとも思った。食事のような。あと 読んでるLINEマンガとか、別になんでもいいんだけど、私は人間の心の奥深くを探ってしんどい気もちになるようなものを 食い入るように読む傾向がある。そんで当然しんどくなる。

自分の興味のあるものしか読めない、使ってきた言語にしかなじまないとしたら、これは至極当たり前のことだと思う。
あーなんか書くのめんどくさくなってきた。

私が「1Q84」を知らなかったのは、私が悪いわけじゃなかったことが証明された。自分は自ら手に取った1つの作品、あるいは日常の意図せぬ一場面においてさえ、大いに傷つくリスクを常にいくつも抱えている。私は弱くはないが、脆すぎるのだ。

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特に最終2段落とか、うまく説明し切れてない部分もあるけど、日記なので、書き散らしなので、よいのです。ただここに曲がりなりにも、人目に触れる文章として付け加えておくなら、私は結局、ことばで自分の心の奥深くに潜って、律儀に向き合いすぎて、しんどくなるということを、自らのアイデンティティとしてしまっている。趣味でもある。興味関心である。それは自分で文章を生み出すにしても、他から供給するにしても、同じなのだ。不幸体質とかだろうか。でも本の言葉を借りれば、不幸でいたほうが楽なこともあるのだ。あってしまうのだ。

残念だけど、どうにもならない事はある。私はがんばって、今までほんとうにがんばって、強さを身に付けてきた。痛みを乗り越えてきた。恐怖を克服してきた。しかしながら、私の脆さは、昔からずっと変わらない、むしろ、生きていく中で傷がどんどん刻まれて、より 脆い存在になっている気さえする。

弱ければ折れるけれど、私は折れない。
脆さゆえに、いつか壊れるだけだ。



…ここでカッコつけて終わらせたかったけど、明らかにいやだなぁ、壊れるのは。バッドエンドすぎる。やっぱり「強さ」って脆くて、だから自分の弱さを受け入れる、互いに認め合うのが大事、みたいな話にいつもなるのだろう。もっと幸せになるために自分の弱さを受け入れようみたいな試みはもう何百回ぐらいやってて、結局たいしてどうにもならないから今があって、だから、「残念だけど、どうにもならない事はある。」って話をしてたはずなんだけど。

…「壊れる」という結論に怯え、まだゴチャゴチャ言ってられる自分に安心した。どんなにしんどくても、生きることへの執着はあるみたいだ。

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