【ディスク 感想】「おしゃべりはもうたくさん」ル・バロクダ, マリー・ナドー=トランブレ(Vn)
以前、こちらの記事でとり上げたカナダのバロック・ヴァイオリン奏者、マリー・ナドー=トランブレが所属する器楽アンサンブル、ル・バロクダ Les Barocuda が昨夏出したアルバム「おしゃべりはもうたくさん」が愉しい。
このアルバムは、17世紀、イタリアの器楽作品を集めたもの。それまで声楽曲中心に発展を遂げた西洋音楽が、徐々に器楽へと重心をシフトさせていった時期に書かれた、カステロ、レグレンツィ、グリッロ、メルーラ、マリーニらの作品、メンバー二人の短い即興演奏で構成されている。演奏するル・バロクダには7人の演奏家がクレジットされていて、曲によって楽器編成が変わる。その中心にいるのはトランブレのヴァイオリンと、Vincent Lauzerのリコーダーの二人で、チェンバロ、オルガン、ガンバ、ハープ、パーカッションがアンサンブルを作る。
トランブレ自身が書いたライナーノートによれば、声楽から器楽へという流れからすれば、アルバム・タイトルは「歌はもうたくさん」というのが正確なはずなのだが、楽器は「歌う」ものでもあるので、「おしゃべりはもうたくさん」というニュアンスの方を強く持たせているのだそうだ。
どの曲も、なんと愉悦感にあふれた音楽だろうか。有名な人気作は収録されていないけれど、明るく快活な音楽あり、しっとりとした抒情に満ちた優しい曲あり、聴いていて一向に飽きることがない。もちろん、それは楽曲自体の佳さに起因するところもあろうが、トランブレを始めとするル・バロクダの演奏がすこぶる魅力的だからだ。彼らの奏でる音楽には、慎ましやかな横方向のグルーヴ感と、いい塩梅の縦方向のビート感が分かちがたく共存していて、心湧きたつような脈動を心に与えてくれる。しかも、浮足立ったり、悪ふざけしたりするような騒々しい場面は皆無で、キリリと表情の締まった清々しい上質な音楽が流れていく、といったオトナな趣がまた、たまらなくいい。
ところで、アルバムのタイトル「おしゃべりはもうたくさん」について少し。アンサンブルの中心となるヴァイオリンとリコーダーが奏でる音楽には、なるほど言葉は介在しない。しかし、その愉し気で活力に満ちたやりとりを聴いていると、まるでおしゃべりが絶え間なく繰り広げられているように思えてならない。ちょっと待て、これは「おしゃべりはもうたくさん」というタイトルじゃなかったのか?石破新総理の所信表明演説みたいな言行不一致なのでは?そんな考えが一瞬頭をよぎるのだが、これほどまでに技巧的で複雑な音の振る舞いは、人間の声ではとても表現できない。やはり楽器が必要なのだと思い至る。だから、これは「おしゃべり」ではなくて、「音楽的対話」というのが正確なのだろう。しかも、そこにはのびやかで情感豊かな歌もあり、器楽で演奏されることで音楽の語彙が美しく拡張され、ライナーノートで言及されている ”spiritual je ne sais quoi (言葉では説明できない霊的な何か)" が表象されているのが見てとれる。17世紀のヨーロッパは発明、発見、冒険の時代だった。音楽もまたそうした時代の流れに巻き込まれ、大きく発展したということなのだろう。聴き手の想像や思考を刺激せずにはおかない、充実した内容を持ったアルバムだと思う。
もちろん、タイトルから離れて聴いても一向に構わないだろう。ただただ「いい音楽」を聴くためのアルバムとしても、十分に自立する。自宅のリスニング・ルームでじっくり聴くにも、カフェや喫茶店で流すにも、朝にも夜にも、どんなシチュエーションにもぴったりと合う、そんな万能の愛おしいアルバムが、この「おしゃべりはもうたくさん」だ。
私が注目しているトランブレのヴァイオリンは、ここでも冴えわたっている。凛として澄んだ音色、しなやかな歌、適度な弾力をもったリズム、どれをとっても私のツボにピタリとはまる。偶然この人の音楽に出会ってから3年、CDやYouTube動画を通じて、その進化をリアルタイムで目の当たりにしているが、まさに私の「推し」ど真ん中の音楽家に出会えた喜びをひしひしと感じている。
そのトランブレは、この6月から日本に居を構えている。SNSの投稿を見ると、彼女は私たち以上に日本の自然や文化を楽しみ、満喫してくれているようだ。肝心の演奏活動も開始したようで、今月末にはカナダ大使館での演奏会も予定されているらしい。名コントラバス奏者・指揮者にして、レコード芸術でもおなじみの音楽評論家、布施砂丘彦氏が橋渡しをされているようで、今後、彼女の日本での演奏機会はどんどん増えていくはずだ。ヴァイオリンの演奏技術だけではなく、イラストなどマルチな才能、広い知性とユーモア、そして何より日本の文化への愛情と理解ゆえに、多くのファンを獲得するに違いない。件の大使館でのコンサートは行けないのだが、必ずや、彼女の実演を聴きたいと切望しているし、容易にその夢はかなうものと信じている。
以下、トランブレの最近の動画を貼っておく。既発盤にも収められたビーバー、テレマンなどの作品を、残響の美しい教会で弾いているライヴや、ル・バロクーダの演奏など、どれも彼女の冴えた音色と、落ち着いた語り口の味わい深い演奏を楽しむことができる。また、日本の前に彼女が傾倒していた中国での演奏もあり、彼女がどうして日本や中国に魅せられているのか、是非とも話を聞いてみたいものだと思う。