震災の日に「カルミナ・ブラーナ」を聴く (バッティストーニ指揮東京フィル)
今からちょうど30年前、阪神淡路大震災が起きる前の日まで、私は神戸にいた。正月に時間がとれなかったので、連休を利用して帰省していたのだった。母と実家でのんびり過ごし、もう一日神戸に滞在しようかとも思ったのだが、その日は義母が出演するコンサートを横浜で聴くことにしていたので、予定通り戻った。
そのコンサートでは、大野和士が指揮するオルフの「カルミナ・ブラーナ」が演奏され、義母は合唱団の一員として神奈川県民ホールの舞台に立った。このホールの創立20周年を記念して開かれた、第1回神奈川芸術フェスティバルの最終日のコンサートだ。
新大阪から乗った新幹線が遅れ、前半の一柳彗の交響曲第3番の世界初演は聴き逃してしまったが、後半の「カルミナ」は無事聴くことができた。それは歌とドラマが一体となった、鮮烈な演奏だった。オーケストラは神奈川フィルを主体に、東京フィルの団員も加わって万全の態勢、アマチュア中心の合唱団も熱演を聴かせてくれた。
大きな地震が神戸を襲ったのは、その翌朝のことだった。テレビニュースで、神戸で大きな地震があったらしいと知ったが、詳しい状況がまったく分からない。会社を休んで実家の母と連絡をとろうと試みたが、電話がまったくつながらない。そうこうするうち、テレビがようやく現地の映像を伝え始めた。そこで私が目にしたのは、倒壊した阪神高速道路だった。あちこちから火の手が上がっているのも見えた。その瞬間、最悪の事態を覚悟したが、母は無事だった。実家も部屋の中はぐちゃぐちゃになったが、大きな被害はなかった。しかし、阪神間の被災の様子が明らかになるにつれ、事の重大さを思い知らされた。
つい昨日まで滞在していた私の故郷が、かつて経験したことのない災害に遭遇していることに、私は言い知れぬ衝撃を受けた。そして、もしも神戸滞在を延長していたら、私はどうなっていただろうかと想像して、恐ろしくなった。頭の上にいろいろなものが落ちてきて大怪我をしたか、もしかしたら命を落としていたかもしれない。そう考えれば、その日に横浜のコンサートを聴いたのは幸運だったのかもしれない。しかし、そんな考えを許さぬほどに、地震と火災であまりにもたくさんの人が亡くなり、あまりにもたくさんのものが失われてしまった。
あれからもう30年が経つ。今日は、前からオルフの「カルミナ・ブラーナ」を聴くことに決めていた。震災の前日にコンサートで聴いたあの曲を。
CDプレーヤーに載せたのは、アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルの最新盤だ。これを選んだのは、単に買ってからまだ聴けていなかったからだが、バッティストーニは思い入れの強い贔屓の指揮者なので、30年目の震災の日に聴くには相応しいと思った。
しかし、この演奏を聴いていて、あの震災についてあれこれと思い出したり、前日の大野和士指揮の演奏の記憶に浸ったり、というようなことをする余裕などまったくなく、バッティストーニと東京フィルの鮮やかで、活力に満ちた演奏に夢中で聴き入ってしまった。
全体的に予想通りの力感に溢れたダイナミックな演奏だが、儚いほどに繊細な弱音の響きと、そこに浮かび上がる、優しくもあたたかい歌に魅せられてしまった。そう、彼がヴェルディの「オテロ」でデズデモナが歌う「柳の歌」や、プッチーニの「トゥーランドット」でリューが絶命する前に歌う「氷のような姫君の心も」で聴かせてくれた歌に通ずる美しい歌。しかもそれは深みを増し、胸に差し込むような静寂を帯びていている。これがあるから、第24曲「ようこそ最も美しい女(ひと)」から終曲「おお、運命よ」のリプライズにかけての、感動的なまでのホットな盛り上がりが生きる。このときの演奏会は聴きに行けなかったが、客席で聴いていたらどんなにか高揚しただろうかと思う。
この「カルミナ・ブラーナ」は、ここ最近のバッティストーニの充実ぶりを如実に表した、非常に優れた演奏ではないだろうか。東京フィルも、声楽陣も、会心の出来(ソプラノ独唱の音程がちょっと気になったが)だと思う。
と、そんなふうにごくごく普通に、つまり、震災の記憶とはほとんど関係なく聴いて(聴けて)しまった。聴きながら震災に思いを馳せようという目論見は果たせなかった訳だが、それだけいい演奏だったということなのだろう。
だが、聴き終わってほとぼりが醒めてくると、この曲の「おお運命よ」の最後の歌詞が胸に響いてくる。
地震のような災害に遭遇するのは、人間の運命なのか。この歌詞の言うように、運命はどんな強者も呑み込んでしまうのなら、私たちは運命とどう対峙すれば良いのだろうか。
運命と抗うには、人間の存在は小さすぎ、無力すぎる。過酷で理不尽な運命を受け容れるには、人間の心は弱すぎる。ただただ運命に身を委ね、嘆き、諦めるしかないのだろうか。結局はなるようにしかならないのだろうか。運命に呑み込まれて、何もかも失ってなお、どうやって弦をかき鳴らせというのだろうか。
分からない。映画「PERFETCT DAYS」の終りの方で、三浦友和演じる男が、主人公の平山に向かって「結局、何も分からないまま終わるのかなぁ」と呟く印象的なシーンがあったが、私もきっと、運命についてこのまま何も分からず、人生を終えていくことになるんだろう。
でも、このエネルギーと儚さの両方を兼ね備えたバッティストーニの「カルミナ」を聴いていると、「そんなこと、分からなくたっていいじゃないか」と思えてくる。どうせ何をやったって分からないのだという自暴自棄かもしれないし、文字通りどうにもならない運命を嘆いているのかもしれないけれど、とにかく「生きている」のだ。それでいいじゃないかと。
バッティストーニが「カルミナ」という音楽の奥底から掬い上げ、私たち聴き手に痛切に伝えてくれているのは、そんなふうに逆に運命という想念を呑み込んでしまう、「生」の衝動や律動なのかもしれない。ここで演奏している人たちも、彼の棒に巻き込まれて眩いばかりの「生」に突き動かされ、「躊躇せず弦をかき鳴らしている」のだ。ならば、私もそこに巻き込まれて、生きようじゃないかと思える。結局、それしかできないということではあるけれど。
30年前、大野和士指揮の「カルミナ・ブラーナ」をホールで聴いていたときには、そんなことは1ミリも考えなかった。翌日に神戸が地震に見舞われるなんて思いもしなかったのだから、当然だ。音楽とはこういうふうにして、生き変わりながら、一生をかけて付き合っていくものだとしみじみ実感する。音楽がいつも私のそばにあることは、何と幸せなことだろうか。
言うまでもないことだが、このアルバムをこんなふうに聴いているのは、恐らく世界で私一人だろう。ここに書いていることは、あくまで私だけのものであり、誰の何の参考にもならない。だが、これが素晴らしい演奏であることは、ライナーノートの加藤浩子さんの熱烈な一文や、「レコード芸術」オンライン版で推薦を受けた月評を読めば明らかだろう。
もうすぐ、震災発生の時間がやってくる。あれからの年月を思いつつ、合掌したい。そして、震災発生から1年を経てもなお、なかなか復興の進まない能登で苦しんでいる人たちが、一日でも早く日常を取り戻せるようにと祈りたい。