そうか、君はもういないのか ~ レコ芸のない世界を生きて ~
レコード芸術が「休刊」して、はや3カ月。毎月20日だった発売日は既に4回を数え、今や「月命日」となった。
私はレコ芸のない世界を生きている。休刊で何か変わったかと言われれば、想定していた通り、さほど大きな変化はない。CDは相変わらず購入し続けている。
しかし、城山三郎の小説じゃないが、「そうか、君はもういないのか」と思うことは、やっぱりある。例えば、ふと手が空いてレコ芸の未読記事を読もうとしたり、気になった批評を読み返そうとしたり、あるいは、購入して聴いたCDが専門家からどんな評価を受けているかが調べようとしたり、そんなとき。習慣とは恐ろしい。
ハッと我に返って、ため息をつくたびに改めて思い知る。レコ芸は私にとって、「次、何を聴こうか」と思いを巡らせてくれる雑誌だったのだと。いまどきの言葉で言えば、レコ芸を読んでウィッシュリストを作っていたのだ。
そこには、私にとっての「未来」がぎっしりと詰まっていた。その未来とは、「今すぐネットで注文」「明日、CDショップに行って買う」という行動であり、高価なBOXセットや入手困難な盤だと「金を貯めて、いつか手に入れたい」という願望である。あるいは、何かの拍子に蘇って購買意欲をそそるために、無意識領域に潜り込む記憶かもしれない。
その「未来」への出発点となるのは、私の中にある「世界は未知の音楽でできている」という意識だ。飢餓感と呼んでも良いかもしれない。私は、自分が生涯に聴き得る音楽など、氷山の一角ですらもないと自覚している。なので、好奇心を持てているうちは、限られた時間の中で少しでも多様な音楽を聴き、存分に楽しみ、味わい尽くしてから死にたいと願っている。
そんなふうに自分の音楽の領域を広げていくのは、自分一人の力だけでは難しい。他者からの刺激は不可欠だ。
そこで、レコ芸のような音楽雑誌の出番だ。馴染みの薄い領域の、名も知らぬ音楽家たちの(私にとっては)目新しいCDを、やむにやまれぬ好奇心にかられてウィッシュリストに追加するには、CDショップのHPやSNSで目にする情報では足りなすぎる。その音盤への評価以上に、「え、こんなディスクがあるのか!」という驚きを与えてくれたのは、やはりレコ芸である。そんなことを思うのは、私がレコ芸にどっぷり浸りすぎたからだろうけれど。
考えてみると、結局、レコ芸がなくなって私が失ったものは、私の音盤生活の「未来」の幅広さ、彩りの豊かさなのだろうと思う。
「欲しいものリスト」が、既に自分の中で確固たる位置を占める音楽家による、半ば自動的に購入しているものや、CDショップのサイトがお薦めしてくるような「想定の範囲内」の音盤で埋め尽くされている気がするのだ。昨今、CDショップが次々と閉店または規模縮小し、店頭での衝動買いをする機会が激減したこと、また、物価高で経済的にも余裕がなくなってきたことも、そうした傾向を後押ししているのは確かだ。
しかし、先がある程度読めてしまう「未来」は、さみしい。現実の生活だけでたくさんだ。でも、趣味の世界なのだから、本当に買うかどうかも決めておらず、結局は買わないままになるかもしれないウィッシュリストを妄想するときくらいは、せめて自分の好奇心を広げ、未知の音楽でできあがった世界をヴァーチャルにさすらってみたいと思う。
だから、少し前にここに書いたように、どんな形でも良いから、私の未来をにぎやかにしてくれる音楽雑誌の登場を切に願っている。
しかし、あくまで私の体感温度だが、巷では音楽雑誌待望論は出ていなさそうだ。このまま自分で未来図を描いていくしかないのかもしれない。
さて、次、何を聴こうか。どんな未来を見ようか。
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