ノンフィクションで世界をハックする 〜書評サイトHONZの挑戦〜
※本稿は『Journalism 2015年9月号』に寄稿したものを、一部改訂して掲載しております。
私が編集長を務める「HONZ」は、新刊ノンフィクションのみを紹介する書評サイトである。2011年7月にオープンし、ほぼ毎日レビュアーたちによって、 日替わりで記事が更新されている。
メンバーは、元マイクロソフト日本法人社長にして文筆家の成毛眞を代表に、 書評家、大学教授、タレント、ビジネスマン、書店員、研究者など多士済々。ほとんどのレビュアーがアマチュアであるにもかかわらず、プロを上回る読書量を誇り、一人として専従者がいないという不思議な組織体である。
ネットの世界において、アマチュアがプロを凌駕するということは珍しくない。趣味の延長線上にあるからこそ生まれる圧倒的に費用対効果の悪い原稿には希少価値があるし、さらにレビュアー同士の競い合いという要素が加わることでクオリティも担保される。
つまり面白い本を紹介したもの、速く書いたもの、多く読まれた記事が勝ちで、そしてこれが一番大事なことなのだが、 より多く本を売ったものが勝ちである。
もちろん原稿料などは一切支払われておらず、サイトへの反応が可視化されること、そしてそれによって情報や人脈が広がることだけが対価である。要はシステム利用料などを除けば、ビジネスマンの「2割の余剰」の集合体によって成り立つ、原価0ビジネスなのだ。
ノンフィクションを取り巻く環境は非常に厳しい。書店に足を運べばビジネス書や自己啓発書、ライトノベルばかりが一等地を埋め尽くし、ノンフィクション雑誌については休刊の報も相次ぐ。
そんな状況の中ではあるが、本稿では読者と一緒に、ノンフィクションをどのように楽しんでいくのかについて考えていきたい。
サイエンスの空間軸、歴史の時間軸
HONZのサイトを眺めてもらえば一目瞭然と思うが、紹介される書籍は多様な中にも適度な分散と集合を保つ。
だからこそ徒党を組む意味があり、メディアとしてのカルチャーが成立するわけだが、とりわけ多く取り上げられやすいのが、サイエンスと歴史である。
世の中の様々な分野を横断的に眺め、何らかの普遍性を見いだそうとするならば、文理の壁を突破する必要がある。
情報の多くが文系的なもので溢れかえっている現状を考えると、理系(サイエンス)の情報は意識的に取得することを心掛けなければ、世の中の半分しか見えていない状態に陥ってしまうだろう。
だが、未来はいつだってサイエンスの分野からやってくる。日頃接しやすい文系的な世界においても、科学的な論理がベースとなっているものも少なくない。サイエンスの情報に親しむことは空間軸を突破し、より遠くの世界を見据えるために必須な条件と言えるだろう。
一方でニュースを始めとする新しい情報がおのずと自分に向かって飛び込んでくる昨今であれば、より長いタイムスケールの中に置いて眺めてみることも、新たな発見を呼びこむための一つの方法論になる。だからこそ時間軸を超えて歴史を俯瞰することは、今を理解することにつながりやすい。
多くの人に閲覧されるコンテンツには、不思議な磁力がある。そのような社会的な影響力にただ流されたり、いたずらに距離を置いたりするのではなく、人とは異なる視点から眺められるようになること。それこそが自由であり、語るべき言葉を持つということだと思う。
そしていずれの分野においても私が探し求めているのは、「対」となるような概念である。ウソのようなホントの話、人間のためのテクノロジー、笑えるサイエンス、古い時代の進歩的な出来事。本の中に対立する二つの概念がせめぎ合っているのを見つけた時、静的な書物は躍動感を持って動き出す。この感覚が、たまらなく好きである。そこに答えはないが、 問いがあるからだ。
このような書籍と出合うためには、書店へ足を運ぶことが肝要である。それもできるだけ大きな書店に、しかも定期的に。私自身は、大・中・小の3種類の規模の書店を併用しながら、日々獲物を狙っている。
ノンフィクションとフィクション その境界線で起きること
まず最近私が注目した本を例に、HONZの手法や考え方について紹介してみよう。
サイエンスの分野で断トツに面白かったのが『サイコパス・インサイド』(金剛出版)という一冊である。
「ミイラ取りがミイラになる」という言葉があるように、がんの名医ががんに罹ることだって、警察官が犯罪者になることだって、決して珍しくはないだろう。しかし本書に登場する著者のケースは、 冒頭から絶句する。
ある日、神経科学者である著者は、大量の脳スキャン画像をチェックしていた。やがて、その中の1枚にひどく奇妙なものが交じっていることに気がつく。
彼の手にした画像の持ち主がサイコパスであることを確信するまでに、時間は掛からなかった。しかしその後、彼は再び驚くことになる。なんとそれは、彼自身の脳スキャン画像であったのだ。
サイコパスの研究者が、サイコパスであった--- この衝撃の事実を皮切りに物語は始まる。科学者視点による所見と自分自身のこれまでの体験、二つの視点が交錯する中で際立っていたのは、両者の間に大きな乖離が存在するということであった。ここから著者自身の自分を取り戻すための、長い自分探しの旅路が始まっていく。
信じられないようなノンフィクションを追い求めていくと、おのずとノンフィクションとフィクションの境界域のようなところを探っていくことになるわけだが、ここでは奇妙な逆転現象が起きることが多い。
嘘のようなノンフィクションと、本当のようなフィクション。つまりノンフィクションは想像力を志向し、フィクションはリアリティを志向する。ここを意識しておかないと、規格外のノンフィクションと遭遇した時に不出来な小説を読んだ時のような感覚を抱いてしまう。「設定にリアリティがないし、話の展開も急すぎる」と。
本書も、まさにその類いであった。創作物なら決してこうは作らないだろうというくらい、いびつな設定と奇妙な展開。だが生身の男の人生が、読み手にとって気持ちの良い構成になっているわけもない。飼い慣らされたリアリティにばかり接していると、カタルシスを感じられないことだろう。
だが、面食らい、当惑し、翻弄され続けるようなところに、リアリティは存在する。ノンフィクションの辺境には、そこを楽しめてこそ!という醍醐味が詰まっているのだ。
ジャーナリズムにこそ求められる ストーリーテリング
ジャーナリスティックなテーマであれば、『黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実』(早川書房)が印象深かった。
ルーシー・ブラックマン事件は、2000年7月に元英国航空の客室乗務員ルーシー・ブラックマンさんが失踪し、 翌年2月に神奈川県三浦市の海岸近くにある洞窟でバラバラ遺体になって発見された事件である。
この事件については、これまでにも様々な報道がなされてきた。だが、それら一つ一つを時系列で丁寧につなぎあわせていっても、決して全貌は見えてこない。事件に関わる実に奇妙な人物たちの存在、そして社会の表と裏が複雑に入り乱れた彼らをとりまく状況を考えれば、無理もないだろう。
おそらく犯人でさえ知り得なかったはずの事件の全貌に挑んだ著者は、日本在住歴20年に及ぶ英「ザ・タイムス」紙の東京支局長リチャード・ロイド・パリー氏。10年以上の取材期間をかけて、この事件の真実を追いかけた。
世の凄惨な事件は、数多くの事象が複雑に絡み合って起きるケースが多い。それは現実の上に、様々な虚構が覆いかぶさっていることによるものだ。
本書の真骨頂は、この虚構を現実の対極としてではなく現実の一部として描いている点にある。つまり、虚実を現実として描き、真実へ近づいていく。
この事件が特徴的なのは、「役割を演じる」というゲーム性が、節目、節目で大きな意味を持っていたことにある。水商売におけるホステスと客の関係、被害者の父親の報道陣との駆け引き、SMというアンダーグラウンドな世界でのプレイと呼ばれる行為。日常生活の中でよく見られるほんの些細な虚構。それは運とタイミングが異なるだけで、底なし沼のような黒い迷宮を構築してしまうのだ。
様々なゲームが繰り広げられるものの、勝者の姿はどこにも見あたらない。事件の全貌に解はなく、複雑なものが複雑なままに提示される。まるでミステリー小説のような体裁をとりながら、事件の全貌が描かれる点が、虚実ない交ぜの事件内容を体現しているようでもあり、非常に興味深かった。
本書に関しては、先日、著者のパリー 氏に直接話を伺う機会に恵まれた。驚かされたのは、ノンフィクションである本作へ物語手法を適用したことについて、 さも当然といったニュアンスで答えていたことである。
ストーリーテリングを強く意識することが、英国ジャーナリズムの伝統として根付いているのだという。おかげで、イギリスのノンフィクションが面白いと言われる理由は、こんなところにも隠されていたのかという深い気づきを得ることができた。
ビジネス書はスタートアップ 「今、ここ、自分」が面白い
ビジネス書を読むのであれば、スタートアップを扱ったものにかぎる。昨年発売された本の中ではビジネス書大賞を受賞した『ゼロ・トゥ・ワン』(NHK出版)が面白かったし、最近の例でいえば『HARD THINGS』(日経BP社)が出色の出来だった。
後者の著者ベン・ホロウィッツ氏は、Facebook、Pinterestなど数々の有望なスタートアップ企業に投資した実績を持つ人物。またそうした企業で働いた経歴もあり、その体験をもとにスタートアップ企業の艱難辛苦を描き出した。
第1章ではいきなりライバル企業に会社が潰されそうになり、第2章で早くも資金が枯渇する。第3章では経営陣を刷新し、第4章では人を正しく解雇する方法について言及される。まるでジェットコースターに乗っているような目まぐるしさが読み手の気持ちをつかんで離さない。
短期間で上昇気流に乗ったり、わずかな隙に潰れる寸前まで追い込まれたり ……。日頃なかなか経験できないことを高速で繰り返す中で見えてくるのは、法人という人格の身体論のようなものである。
会社とはいえ、生きるか死ぬかを短期間に何度も体験した人の目線はどこまでも謙虚だ。その親身な語り口は、スタートアップ関係者にとって、孤独から解き放ってくれる格好の手引となるだろう。
一方、様々な業界において起業家マインドが求められる昨今のビジネス環境を裏付けるように、本書は会社勤めの人に も多く読まれていると聞く。本書と同じような内容は、大企業の社長と言われる人にも書ける話なのかもしれない。
だがその多くは目線が合わず、「良い時代だったのですね」という読後感しか残らないものも多い。なんといっても同時代感、リアルタイム感こそが、説得力を持つのである。
自分が歩いている道のはるか彼方ではなく、歩いているすぐ脇にも小道があることに気づき、そこを歩いている連中が何だか楽しそうに夢を語っている。 ビジネス界のファンタジーが、「いつか、どこか、誰か」の話から「今、ここ、自分」へと軸を移しつつある。それくらいスタートアップという存在は、身近なものになってきているのだ。
あったのかもしれないパラレルワールドを夢想する面白さは、優秀とされるビジネスマンほど野心を刺激されるだろう。
編集すべきは人とルール
今年の6月、突然HONZの編集長になった。ある夜Facebookを眺めていたら、代表の成毛眞が突然「今日から内藤順が編集長になります」と発表しており、私が編集長を引き継ぐことになっていたのだ。
私自身の資質は変わらないし、会社での仕事内容も一切変わらないのだが、編集長という肩書が付けば、その日からそれなりに振る舞わなければならない。そもそもHONZのようなキュレーションサイトに編集長は必要なのだろうか? このあたりから考えることを始めた。
HONZは書き手に全ての裁量が任されており、たいがいのことは個人の判断で行い、事後で報告するというカルチャーが根付いている。
私は明日誰が何を書くのかも知らないし、メンバーに特定の本のレビューを書くように指示することもない。そうしたことをやらないから、メンバーはこのメディアを信頼してレビューを書き続けてくれているのだと思う。
であるならば、委ねるべき書き手をどのように構成するのか、そして書く時のルールをどのように規定するか。それこそが編集長の役割になるのではないかと考えた。
編集すべきは人とルール、会社機能に例えるなら、人事部と総務部こそが担当領域なのだ。だから私は、編集長の仕事をクリエイター的な領域ではなく、きわめて政治的な役割を担うものと位置づけている。
HONZのような文化的なつながりの基盤上に政治が必要であるということ自体、極めて現代的な現象と言えるだろう。 編集長になる前からぼんやりとそんなことを考えていた私は、今年に入ってから、新しいレビュアーの獲得へ乗り出した。
キュレーション力の源泉は、メンバーの多様性から生まれる。HONZは始まった時から既に、メンバーの職種はバラバラで、十分に多様性が保持されていた。しかし4年の月日を経て何か同質化してきてしまっているのではないか? そう考え始めると、もはや危機感しか残らなかった。
そんな時にふと目にした「基本読書」というブログは、衝撃的だった。 文章はまだ粗削りだが、書評の量産されるペースが尋常ではない。すぐに連絡を取り、現れた弱冠26歳の男性、それが現メンバーの冬木糸一であった。
事務的な話以外に多くを説明する必要はなかったと記憶している。読書をしている以外の姿が全く想像できない彼のストイックさが、今のHONZに欠けているものを補ってくれるのではないか。一方でHONZは彼に今よりも良い環境を与えてあげられる、そういう取引が自然に交わされたのであった。
多士済々のレビュアーの新しい化学反応を期待する
一方で、書評が書けるかどうかは分からないたが、とにかく仲間にしたかった人物もいる。それが学術系クラウドファンディングサイト「academist」を運営する柴藤亮介であった。
サイエンスを始めとする研究者たちが、 クラウドで研究資金を集めるというサイトのコンセプトには強く興味を覚えた。こういうサイトを運営する人物がメンバーに入れば、本が出来上がる以前の上流工程で何か新しいものを生み出せるかもしれない。そんな思いが先行して、彼にレビューを書くよう説得し現在へ至る。
ちなみに後日、一緒にインタビューに出向いたクマムシ博士こと、堀川大樹氏も後にメンバーとなったわけだから、場外戦もまさにノンフィクションだ。 つまりHONZには研究ができる人、 研究の資金を集められる人、それを書籍にできる編集者、できた本を書店に流通させる取次会社、本を売る書店員、その 本の書評を書けるレビュアーという全てのパーツがそろったことになる。
あとは化学反応が起こるのを待つばかり、そのように人材を構成することも編集の妙と言えるだろう。
また、HONZにはレビュアーによる記事以外にも、外部コンテンツが数多く掲載されている。
「『解説』から読む本」というコーナー は、翻訳書などの巻末に掲載されている訳者あとがきなどを、そのままコンテンツ化したものだ。本を読み終えてから解説を読むという人も多いかもしれないが、「本を購入する際の意思決定に使ってみてはどうだろう」という新しい本の楽しみ方を提案している。
このような外部コンテンツを掲載する中で、メンバーへ無言のメッセージを飛ばしているケースも意外に多い。「なんでこの本の書評が出なかったのか」と問いかけているケースもあれば、「これは良い本だよ」と言っている時もある。だが一番大切なのは、バランスを崩しにいくことではないだろうか。
民主主義が本当に優れた意思決定システムかという議論にも近いが、全てを各人の裁量だけに任せた時、その集合体が品の良い幕の内弁当のようなケースに収まることは多い。しかし、これが案外面白くないのだ。
バランスを崩し、偏重を企てていくことこそ、サイトを特徴づけていくうえで重要だと思う。ある意味、メンバーの復元力を信じられるからこそという側面があることは、付け加えておきたい。
ネットの書評は荷を動かしてこそ
いわゆる新聞書評とネット書評で大きく異なる点がある。それはネット書評の場合、販売チャネルとなるネット書店へ直接リンクが張れることだ。同じ書評とはいえ、チャネルへの近さによって役割は大きく変わるべきだろう。 だから私の場合、書評を書くというより広告を作っている感覚のほうが近い。
つまり商品のUSP(ユニークセリングポイント)を分析し、ユーザーインサイトを洗い出す。記事のタイトルは、 キャッチコピーと同じだから10案以上は考えるし、CTR(クリックスルー・レート)やAmazonランキングがどのように動いたかもウォッチの対象になる。
この時、どの本を選ぶかが極めて重要になってくることは、言うまでもないことだろう。通常の広告制作と最も違うのがこの点なのだ。頼まれてもいないのに、勝手に広告を作る。だからこそ、自分の一番面白いと思った商品で広告を作りたい。この願望を満たしてくれるのは、オウンドメディアならではだ。
また効果を実感するためにAmazonのランキングから逆算するような視点も必要になってくる。 既にランキングで3位になっているものを1位にするよりも、1000位くらいのものを100位以内に動かした方が手応えを感じやすいものだ。
このように発売直後の書籍の成長をアシストすることも、重要な役割ではないかと考えている。つまり、「◯◯が売れている」と後付けで論じるのではなく、「◯◯が売れている」という事実を形成することへ積極的に関与した方が、世の中を動かせると思うのだ。
もはやアクションなき言論に力はないし、真に中立的で客観的なスタンスなど存在しえない今、建前だけを取り繕っても徒労に終わってしまうだけだろう。
最近HONZ内に作った「今週のSOLD OUT」というコーナーも、我ながら気に入っている。
その週にHONZで掲載された人気記事の中から現時点でAmazon在庫切れになっているものだけを紹介するという不思議なコーナーだ。よく読まれ、よくセールスできたレビューが一番エラい、という原理原則をHONZ内部でいま一度確認したかったというのが狙いである。
こういう時には内部で通達をするのではなく、コンテンツにして晒してしまった方が話は早い。HONZがきっかけで話題になった書籍のリマインドをかけられる副次的な効果も狙えるので、一挙両得と言えるだろう。
ジャーナリストにもマーケティングセンスは必要
私は広告業界に身を置く人間であるが、HONZの活動を通して隣接する出版業界から学びを得たことは多い。
双方の業界を行き来しながら感じているのは、出版にはマーケティングの視点が欠けているし、広告には編集的な視点が欠けているということである。
広告屋の立場からすると編集の領域というのは、これまで決して立ち入ることのできなかった聖域のような場所であった。新聞や雑誌といった強大なパッケージに守られていた時代は、読んでもらうということに関して非常に恵まれた環境にあったと言えるだろう。
だがそのノリで作られたコンテンツは、ウェブのように玉石混交な環境に一片のコンテンツとして置かれた時、たどり着くまでのアテンションが圧倒的に弱い。
また、電子書籍におけるマーケティング不在に関しては、苛立ちすら覚えている。 現在では流通対策の一環として、まず紙の本が発売され、1週間後くらいに電子書籍が発売されるというのが主流である。これはマーケティングの定石から考えると決定的に間違えているのではないかと思う。
まず電子書籍で展開、しかも不完全な状態で安価に出す。書名や構成の違うものを複数出し、そのマーケティングデータをもって、書店に営業を仕掛ける。 デジタルでじわじわ火をつけてから、 オフラインで更に大きく刈り取る。そのような時代が早く来てほしいと心から願っている。完成品の置換というだけの視点では、デジタルの可能性を大きく閉ざしてしまうのだ。
一方で打ち上げ花火のように大型キャンペーンを繰り広げてきた広告業界には、 長期間にわたって小規模のコンテンツを展開していくといったスキルが欠けている。この点に関して、出版業界の編集スキルから学べる点が大いにあることは言うまでもない。
同様の関係は、ジャーナリズムにも当てはまるだろう。ジャーナリズムの目的が世の中を正しい方向に動かすことと考えるならば、実現するための手法がペンの力だけではないことを、身をもって経験しておく必要がある。
自分の本業の時間をなんとか2割ほど削ってWEBサイトの一つも運用してみれば、マーケティングスキルは驚くほど身につく。自分の興味のある分野なら何でも良いと思うが、書籍におけるノンフィクションのような、広大なニッチマーケットにフォーカスを絞ると、その面白さも倍増するだろう。
一身にして二生を経るが如くの生き方で選択肢を増やす。こうして生まれたハイブリッドなジャーナリストこそが、出版業界そのものをバージョンアップしていくと確信している。
ノンフィクションで世界をハックする
読書は投資、とはよく言ったものである。たしかにそういった側面は否定できない。読んだ時には何の役にも立たなくても、5年後10年後に目に見えぬ形で自分に力を与えてくれたということは、読書習慣を持つ人なら誰しも体験したことがあるのではないだろうか。
だが、その読書を他人に晒すという行為は、きわめて利他的なものであり、他者への投資だ。
長くおすすめ本を紹介していると、おのずとアウトプット前提での読書になってくる。この本は紹介するに足るものか、何を訴求点にしたら話題が拡散するのか。その行為を行うことで、多品種少量生産という出版業界のメディアとしての特性を長く保持することに貢献できるか。そこまで視野に入れて考えている。
結局のところ、そのような行為がひいては自分に対するリターンを生み出すであろうという、利己的な目的での利他性なのだ。
どこの書店に行っても、ビジネス本や自己啓発本が中心に据えられており、HONZで紹介されるようなノンフィクションの位置づけは、決してマジョリティーを形成するものではないかもしれない。だがそのカウンター・カルチャー感こそが、私を強く魅了する。
1960年代の西海岸で花開いたヒッピー文化は、辺境からその後の世界を牽引した。LSDの世界に入り浸っていた連中をパソコンの世界へと誘ったのは、「意識の拡大」という概念であったと聞く。
標準から大きく逸脱した書物の集合体は、森羅万象そのものがアップロードされたような世界であり、薬物やテクノロジーを使わなくても意識が拡大するような感覚を味わうことができる。この種の経験を何度となく繰り返した時、ノンフィクションという世界から抜け出すことは難しい。
HONZで何を伝えるべきか、毎回頭を悩ませるところだ。ただ本の内容をまとめても意味がない。何をシェアすべきか、そこに自分だけの発見が欲しい。
自らの身体の限界を超え、時間軸、空間軸を超えた普遍性を見いだすこと、さらにその本特有の固有性を見いだすこと。この普遍と固有の両サイドから、本の骨子となる部分をわしづかみにできたと感じた時、私はその本を読み解けたと思い、人に伝えたくなる。どうもこれはハッカーの行動原理に近いのではないか。そんなことを最近感じ始めている。
さらに、これを集団で行いながら、競い合い、分かち合う。本業を別に持ちながら愉快犯的にやってのけるところも、なかなかタチが悪いだろうと、密かにほくそ笑んでいるのだ。