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阿含経・三供養品 涅槃界に至る④

現在の漢字文化圏における仏教において仏法僧という概念があります。
この仏法僧の源流は阿含経あごんぎょう三供養品さんくようぼんというお経にあります。

下記は三供養品さんくようぼんと仏法僧を並べた対比です。

①仏:如来のみもとにおいて功徳をえる
②法:正法において功徳をえる
③僧:聖衆において功徳をえる

三供養品では、この条件を満たした上で修行をしっかりやると、普通の人(凡夫)の境界を脱して四沙門果の段階まで到達できると説明しています。

ところで四沙門果とは何でしょうか?
これが、このnoteのテーマです。


「涅槃界に至る」

有三善根不可窮尽漸至涅槃界
三善根あり、窮尽すべからずして、漸く涅槃界に至る

阿含経あごんぎょう 三供養品さんくようぼん 

これは三供養品さんくようぼんの冒頭の文章です。
「窮尽すべからず」は直訳すれば広大無限できわめくすことができないという意味ですが、この文章を意訳すると

三善根によって無限の功徳を得ることができて、涅槃界に入ることができる

となります。

では、その三善根とは何でしょうか?
それは
①如来のみもとにおいて功徳をえる
②正法において功徳をえる
③聖衆において功徳をえる
と続くのが、この三供養品さんくようぼんというお経です。

涅槃界に至る=四沙門果の段階に到達する

三供養品さんくようぼんでは「涅槃に至る」ではなく「涅槃に至る」とあり、わざわざ「界」という文字が使われています。
大昔の仏典翻訳者は、違いを理解したうえで翻訳していると、現代の我々は認識しなければならないし、また実際に意味が違います。

「涅槃に至る」は「仏陀そのものになる」という意味です。
「涅槃に至る」は「凡夫の境界を脱して、四沙門果ししゃもんかの段階に到達する」の意味になります。
「至る」ポイントが前者は「最奥」で、後者は「ちょい手前」という違いがあります。 

仏陀になる前の段階がある

仏教の最大の目標は「六道輪廻の境界で生死輪廻を繰り返す凡夫が、悪因悪業・カルマを消滅させて仏陀になること」ですが、凡夫が直接、仏陀になるわけではありません。
数段階のステップを経て、仏陀になります。
そのステップは4段階あるので四沙門果ししゃもんかという名前がついています。

六道輪廻の境界で生死輪廻を繰り返す凡夫(読者である、あなた)
 ↓ かなり厳しい断崖絶壁。普通は超えられない。
四沙門果ししゃもんか①シュダオン
 ↓
四沙門果ししゃもんか②シダゴン
 ↓
四沙門果ししゃもんか③アナゴン
 ↓ 最後の断崖絶壁
四沙門果ししゃもんか④仏陀

修行をすると到達する世界である

四沙門果ししゃもんかのシュダオンは、身見・疑惑・戒取を断じて云々
という学問的な定義があります。
でもそれは、学問的な知識を得たから四沙門果ししゃもんかのシュダオンになるのではなくて、修業によって悪因悪業・カルマを減じて家族を含めて自分自身の運命が変わったという明確な実績があって得られる所の身見・疑惑・戒取を断じるというプロセスです。

四沙門果ししゃもんかの境界に到達したかどうか?というのは、本人には全くわからない。
ただ、三供養品さんくようぼんを基準とした功徳の種を植えて芽吹かせて育てるという修行を地道に頑張ってきた結果、家族も含めて悪因悪業まみれの不幸な人生から脱して、明確に良い感じになってきたという成果の実感はある。

すると、ある日突然、神仏による査定を通過したらしく、神仏側からのアプローチを受けて、何らかの霊的な体験をする。
これを「霊性開顕」と阿含宗では言う。

この「霊性開顕」という体験は、凡夫の境界では発生しない。
その人が凡夫の境界を突破して、新しい段階に入ったことを神仏が認定しています。

その体験は本当にあったことなのか?自分に都合の良い勘違いなのか?
それは、その後、神仏の存在を何らかの手段で知覚できるようになっているかどうかで判断ができます。

「霊性開顕」は、教義教学を深く理解していると、これがそれか!とわかる。
そして面白いことに、教義教学を深く理解してないけど一生懸命やっている人の中には、自分が「霊性開顕」の経験をしたことに気づいていない人もいる。

阿含宗で修行を頑張るおばちゃんたちの中には、知らないうちに「霊性開顕」の体験をして、ちょっとした霊視能力を持つようになり、阿含宗の護摩の炎の中に紫色や緑色の霊力の煌めきを見るようになった人が、結構、いる。
おばちゃんたちの言い分は「阿含宗で修行する人は、皆、炎の中に色々な色が見えるのだと思っていたから、見えない人がいることに驚いた」となる。こちらが頭を抱えたくなるような純粋な答えが返ってくる。

「ほら!今、緑色になったよね!綺麗な色よね!」と言われる。
こちらは、全くわからないのだが・・・

だから知識人ぶって、ちょっと瞑想ぽいことをして、自分は悟りを得た等々主張する人がいたら、その人は偽物である可能性を大いに疑ってください。その人は、あなたと同じ境界にいる、ただの凡夫です。

四沙門果を語らないのは大人の事情?

阿含経や南伝パーリ語仏典を学んでいながら四沙門果ししゃもんかを知らないというのは、あなたは何を勉強しているの?と問い詰めたいところです。でも一般的な書籍に書いてないからという理由だとすれば、まあ、大人の事情なので仕方がない、と思います。

まず、現代の日本の仏教学者は四沙門果ししゃもんかを語れない。
なぜかと言うと、四沙門果ししゃもんかを語ってしまうと、阿含宗開祖という新興宗教の教祖様の主張を追認することになるから、それをすると学者さんは特定の新興宗教団体に肩入れをしたことを責め立てられて失業してしまいます。だから知ってても語れない。大人の事情の可能性がある。
単純に本当に勉強してなくて理解していない可能性もあるけど・・・

スリランカや東南アジア系の南伝テーラワーダ仏教の人で、四沙門果ししゃもんかを語っている人を、ボクは見かけたことがないです。
南伝仏教では重要な事柄を失伝してしまって、全く顧みられていないのではないか?。その影響を受けて、日本人の南伝仏教系の人も知らないか軽視している。彼らもまた、仮に四沙門果ししゃもんかを認めてしまったら、やはり阿含宗開祖の主張を追認することになるから、意地でも認めないのではなかろうか。大人の事情の可能性がある。

更に言うと南伝仏教は戒律と屁理屈の仏教なので、戒律という名の「我々の想像を絶する変なローカルルール」に縛られた官僚組織になっていると想像できます。
とすると、ローカルルールと屁理屈では理解できない四沙門果ししゃもんかという霊的進化や「霊性開顕」という体験を官僚組織が認めるとは思えない。
異物・異端は排除せよ!と、過去に何度もやってきたのでは?と、お察しすることはできますよね。勝手な想像だけれども。

書籍や過去のnoteへのリンク

阿含経三供養品についての阿含宗開祖の解説がある書籍はこちら

三供養品についての解説と同時に、「意生身」という、現代の我々が一般的に幽霊と思う存在をお釈迦様がはっきりと認めている経典が掲載されています。お釈迦様は霊魂を説かなかったという一部の人の説明は誤りです。それをこの書籍でご確認いただければ幸いです。


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